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2013年09月

律令制度の完成期~動揺期にあたる奈良時代(710年~794年)に、26年間(724年~749年)天皇として在位したのが聖武天皇です。

聖武天皇聖武天皇は、文武天皇を父、藤原不比等の娘の宮子を母として生まれました。皇后は不比等の娘の光明(こうみょう)皇后です。

当時、口分田が不足してきたので、開墾をすすめて耕地を増やすために、723年、三世一身法(さんぜいっしんのほう)が出されましたが、聖武天皇の天平15年(743年)、さらに耕地の開拓を進めるために墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)が制定されました。

疫病(天然痘など)の流行や、長屋王(ながやおう)の変藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱などの政治不安をうれえた聖武天皇は、仏教の力で国の平安を保とうとしました。
741年、詔(みことのり)を出して全国に国分寺国分尼寺の建立を命じ、745年には総国分寺として東大寺の造営を命じました。
行基(ぎょうき)などの協力で、752年東大寺大仏の開眼供養(かいげんくよう)がおこなわれました。

聖武天皇の皇后が、皇族以外から始めて皇后に立てられた藤原不比等の娘光明皇后です。仏教を深く信仰し、孤児や貧民を救済する施設である悲田院(ひでんいん)や、薬を与える施設施薬院(せやくいん)を設けました。
聖武天皇の死後、夫の遺品を東大寺に寄進し、遺品の宝物(ほうもつ)を納める校倉造(あぜくらづくり)の正倉院が東大寺の境内につくられました。


藤原鎌足、藤原不比等以後、勢力を拡大した藤原氏がさらに天皇家と深く結びつこうとして擁立したのが聖武天皇です。
長屋王の変は、皇族でない光明子を皇后にするために藤原氏が長屋王を失脚させた政変です。

ところが、737年、藤原不比等の子である藤原四家の武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)が都で流行した疫病によって病没します。

聖武天皇は、藤原氏から距離をおき、
吉備真備(きびのまきび)、僧の玄昉(げんぼう)、橘諸兄(たちばなのもろえ)などを登用してみずから政治をおこないました。
藤原広嗣の乱は、橘諸兄などを排除しようとした一部の藤原氏のたくらみでしたが、失敗します。

聖武天皇は平城京を出て、いくつかの都の造営を計画します(恭仁京(くにきょう:現在の京都府木津川市)→紫香楽宮(しがらきのみや:現在の滋賀県甲賀市)→難波宮(なにわのみや:現在の大阪市)→紫香楽宮)。

また、仏教に帰依し、莫大な国費を費やして国分寺国分尼寺東大寺などを建立しました。

公地公民によって中央政府の財源が充実したことによって大規模な工事や寺院の造営が可能になったわけですが、他方、都では疫病や政変が起こり、地方では農民が困窮化するなど、政治の矛盾も表面化し始めました。
聖武天皇は、律令政治絶頂期から動揺崩壊期にかけて在位した天皇だといえます。


聖武天皇の生涯(年表)

701年 藤原京で文武天皇と宮子(藤原不比等の娘)との間に誕生

707年 文武天皇崩御、文武天皇の母(聖武天皇の祖母)の元明天皇即位

710年 平城京遷都

714年 首皇子(おびとのおうじ:後の聖武天皇)皇太子に

715年 元正天皇(文武天皇の姉、聖武天皇の伯母)即位

716年 首皇子、藤原不比等の娘の光明子(後の光明皇后)を夫人に

720年 藤原不比等、死去

723年 三世一身法

724年 聖武天皇、即位

729年 左大臣の長屋王が謀反を疑われ自殺(長屋王の変)、光明子が光明皇后に

730年 光明皇后、悲田院・施薬院を設ける

735年 遣唐使で唐に渡っていた吉備真備、僧玄昉、唐より帰国

737年 藤原房前、藤原麻呂、藤原武智麻呂、藤原宇合の順に疫病で死去

738年 橘諸兄を右大臣に

740年 藤原広嗣、九州で兵を挙げ反乱(藤原広嗣の乱

741年 国分寺・国分尼寺建立の詔

743年 墾田永年私財法

745年 行基、大僧正に

748年 聖武天皇と光明皇后の娘、孝謙天皇が即位 

752年 東大寺大仏開眼供養

753年 唐の僧、鑑真が来日

754年 聖武太上天皇が崩御、光明皇太后が遺品を東大寺に寄進

760年 光明皇太后死去


三世一身法・墾田永年私財法

三世一身法

班田収授法による公地公民によって政府の財政が安定したことで国民生活も安定し、人口が増加し食料が不足し始めました。また、政府の費用も増え続けました。
そこで、政府は耕地を開拓させて耕作田を増加させる政策をとります。

開墾をした人を優遇することで国民が自発的に開墾することをねらって、723年に制定された法が三世一身法(さんぜいっしんのほう)です。

灌漑施設(かんがいしせつ:水路や池などの農地に水をひく施設)を新たに作って田を開いたときは、三世(本人・子・孫、または子・孫・ひ孫)まで土地の私有を認め、既存の灌漑施設を利用して田を開いたときは一身(本人)の私有を認めることを内容とします。

開墾した土地に限ってですが、耕地の私有を認めたことで、結果的に公地公民の例外を許容する道を開いたことになります。


墾田永年私財法

三世一身法では、期待したような耕地の開拓が進みませんでした。

3代で国に土地を取られるので、それを嫌って開拓が進まないのではないかと考えた政府は、聖武天皇の名で743年墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)を制定し、開墾して耕作田を増やした者に永久の土地私有を認めることにしました。

開墾をしようとするものは国司を通して国に開墾の申請をします。農民の耕作をさまたげるおそれのある土地の申請は認められません。また、申請後3年以内に開墾をしないと申請の効力を失います。
私有を認められる土地の広さは、貴族の場合は位階によって500町から100町までという制限があり、庶民の場合は10町までとされました。

「農民の耕作をさまたげてはならない」、「大貴族ほど広い土地の私有が認められる」などの条文から、実際に開墾をして土地の私有をしたのは高位の貴族や大寺院であったことがうかがわれます。
墾田永年私財法そのものが、藤原氏などの貴族大寺院が有利になるような内容を含んでいるわけです。

墾田永年私財法によって、公地公民の制度は崩れていったとされています。
大貴族や大寺院の土地の私有が進み、やがて荘園と呼ばれるようになります。

その荘園を経済的な基盤にして、平安時代初期の藤原氏の全盛時代がもたらされるわけです。


天平文化


聖武天皇の天平時代(729~749年)を中心に栄えた文化を天平(てんぴょう)文化といいます。
の文化の影響をうけた、貴族階級による仏教文化です。唐を通してインド・ペルシャ・アラビアの文化も流入しました。

建築では、校倉造の正倉院、東大寺法華堂、唐招提寺金堂など。

美術品では、東大寺にある日光菩薩(にっこうぼさつ)像・月光菩薩(がっこうぼさつ)像、正倉院にある鳥毛立女屏風(とりげたちおんなびょうぶ)、興福寺の阿修羅(あしゅら)像,唐招提寺の鑑真和上(がんじんわじょう)像、薬師寺の吉祥天画像(きちじょうてんがぞう)など。

書物では、最古の漢詩集である『懐風藻(かいふうそう)』、歴史書として太安万侶(おおのやすまろ)による『古事記』、舎人親王(とねりしんのう)による『日本書紀』、各地の特産物や伝説をまとめた『風土記(ふどき)』、わが国最初の和歌集で天皇、貴族から農民の歌まで4500首をおさめた『万葉集』などが天平文化にふくまれます。


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飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけて活躍した政治家が藤原不比等(ふじわらのふひと)です。

天武天皇(在位:673~686)、持統天皇(在位:686~697、天武天皇の后)の治世の後、文武(もんむ)天皇(在位:697~707、天武天皇の孫)、元明(げんめい)天皇(在位:707~715、文武天皇の母)、元正(げんしょう)天皇(在位:715~724、文武天皇の姉)の時代に活躍しました。

藤原不比等は大化の改新に功績のあった中臣鎌足(藤原鎌足)の次男です。

また、不比等の子、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)が、藤原四家の南家・北家・式家・京家となり、不比等の子孫が後の摂関政治をにないます。

さらに、不比等の娘宮子は文武天皇の后となって聖武天皇を産み、不比等と県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)との娘光明子は聖武天皇に嫁いで光明皇后となります。

直接明示する歴史資料はほとんどありませんが、701年の大宝律令の制定、710年の平城京遷都や、古事記日本書紀の編纂などを実質的に推進したのは藤原不比等だとされています。


藤原不比等の生涯(年表)

659年 中臣鎌足の第二子として誕生

669年 中臣鎌足、天智天皇より藤原の姓を賜る

672年 (壬申の乱)

673年 (天武天皇即位)

686年 (持統天皇称制)

689年 不比等31歳のとき、従五位下の判事となる(不比等の名が史書に表れた最初)

697年 文武天皇即位

701年 大宝律令

707年 元明天皇即位

708年 和同開珎(わどうかいちん)

710年 平城京遷都

712年 古事記(太安万侶)

715年 元正天皇即位

720年 日本書紀(舎人親王)、藤原不比等死去

724年 聖武天皇即位


大宝律令
近江令(天智天皇)、飛鳥浄御原令(天武天皇)についで、701年に制定された、律を備えた最初の本格的な律令(法律)です。

藤原不比等刑部親王(おさかべのみこ:忍壁皇子とも表記)が責任者になって編纂したとされています。
中国(特に)の法制である律令を模範として、わが国に導入しました。

刑法にあたるは、ほぼ唐の律をそのまま踏襲しました。

行政法にあたるは、わが国の実情に合わせたものになっています。
中央に役所として二官(太政官・神祇官)と八省(中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)を置くこと、公文書には元号を用いること、地方の単位である国・郡・里に国司・郡司を任命することなどを定めました。

大宝律令は逸失して原文は不明ですが、757年に制定された養老律令などによって大宝律令の内容を推定することができるのだそうです。


平城京(へいじょうきょう・へいぜいきょう)
わが国最初の本格的な都は、持統天皇の時代に、現在の奈良県橿原市に造営された藤原京です。

藤原京が手狭になったので、710年元明天皇のとき、の都長安(ちょうあん:現在の西安(しーあん))にならって大規模な都を現在の奈良市に建設したのが平城京です。
784年に長岡京(現在の京都府向日市・長岡京市など)に移るまで、奈良がわが国の首都でした。

大規模な首都を建設することで、内外に天皇と朝廷の権威を示すことを目的としました。

平城京は、当時、ほぼ10万人の人が住んでいました。
東西南北に道路が桝目(ますめ)状に整備された条坊制が特徴です。
平城京跡からは、字を書きとめた木の札である木簡(もっかん)が多数発見され、当時の様子を知る手がかりとなっています。

平城京への遷都の理由として、旧豪族の勢力が残る飛鳥に近い藤原京から離れた地に遷都することで律令政治の徹底を図ろうとした藤原不比等の意志があったといわれています。


和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)
日本で最古の貨幣は、683年頃につくられた富本銭(ふほんせん)です。 
実際に流通したのか、まじない用に使われただけなのか、わかっていません。

708年、武蔵国秩父(現在の埼玉県秩父市)から銅が献上されたのを機に、元号を和銅と改め、唐の貨幣を模範として作られた最初の流通貨幣が和同開珎です。

和同開珎以降、958年まで政府が発行した貨幣をまとめて皇朝12銭といいます。

奈良時代はまだ物々交換や米などを貨幣代わりに利用する経済だったので、貨幣は都近くの畿内以外にはほとんど流通しませんでした。


日本書紀
720年舎人親王(とねりしんのう)らが編纂し、元正天皇のときに成立した、わが国で最初の正史(国家によって編纂された歴史書)です。
神代より持統天皇の治世までのわが国の歴史が、漢文、編年体で記述されています。

中国の歴史書を模範に、天皇と大和朝廷の権威を高めることを目的に編纂されました。
日本書紀の天武天皇10年(681年)の条に、「天武天皇が歴史書の編纂を命じた」という趣旨の記述があることから、天武天皇の時代に作成が始まり、元正天皇のとき、720年に完成したことが明らかです。

天皇家以外の豪族の家記や、官庁の記録、個人の日記、寺院の縁起類、中国の史書や朝鮮の資料など多くの資料を引用した内容となっています。

編纂を命じた天武天皇や、当時の実力者である藤原不比等の意向をくんで、天武天皇、藤原氏に有利な記述に偏っているという学説も有力です。

同時代、日本書紀よりやや早く成立した歴史書としては、天武天皇が命じた稗田阿礼(ひえだのあれ)の口述を、元明天皇の命により太安万侶(おおのやすまろ)が書き取ったとされる古事記があります。


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古墳時代の末期、592年~710年、奈良県の飛鳥(あすか)地方(現在の明日香村)に都が置かれていた時代が飛鳥時代です。

そして、飛鳥時代中期に政治の大改革をおこなったのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:天智天皇)です。

奈良時代の歴史書『日本書紀』などによると、645年、中大兄皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと協力して蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)を倒しました(乙巳の変(いっし(おっし)のへん))。

中大兄皇子と中臣鎌足は、日本最初の年号を「大化」と決め、大化の改新の詔(みことのり)によって、豪族の持っていた土地と人民を国のものとする公地公民、地方を国と郡と里に分けて国司・郡司・里長を置く国郡里制、戸籍を作って国民に口分田を与えて耕作させる班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)、米と布と地方の特産物を税として納めさせる租・庸・調(そ・よう・ちょう)を始めました。

また、百済を助けるために朝鮮に出兵しますが、唐と新羅の連合軍と戦って白村江(はくすきのえ(はくそんこう))の戦いで敗北します。

天智天皇(てんじ(てんち)てんのう)となった後、最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作り、最初の律令である近江令(おうみりょう)を制定しました。


中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:天智天皇)の生涯(年表)

618 隋を倒してが建国

626 誕生
父は舒明(じょめい)天皇、母はのちの皇極(こうぎょく)天皇(のち再び即位して斉明(さいめい)天皇)の第二皇子として生まれる。

641 舒明天皇が崩御

642 皇極天皇が即位

645 皇極天皇の眼前で中臣鎌足らと蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷自殺(乙巳の変
舒明天皇の弟である孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子

646 大化改新の詔(たいかのかいしんのみことのり)

652 班田収授法(はんでんしゅじゅのほう)

655 皇極天皇が斉明天皇として再び即位

661 百済を救うために朝鮮へ出兵、同行した斉明天皇が筑紫国で崩御

663 白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北

667 都を飛鳥から近江大津宮に移す

668 天智天皇として即位

669 中臣鎌足死去

670 庚午年籍をつくる

671 近江令をつくる
天智天皇崩御


天智天皇崩御の後

672 天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)と、天智天皇の弟とされる大海人皇子(おおあまのみこ)が皇位をめぐって戦う(壬申の乱(じんしんのらん)
勝った大海人皇子が天武天皇として即位


中臣鎌足・大化の改新・白村江の戦い・壬申の乱

中臣鎌足(614~669年:中臣鎌子・藤原鎌足)
朝廷の祭祀(さいし)をつかさどっていた豪族の中臣氏に生まれました。
鎌足の次男が藤原氏繁栄の基礎を築いた藤原不比等、娘2人は天武天皇の夫人です。

遣隋使の一員で中国で学んだ僧旻(みん)に、若い頃、蘇我入鹿とともに易学を学びました。

家業である祭祀の職を継がずに隠棲し、当時、天皇家をしのぐ勢いがあった蘇我氏を打倒する策を練りました。
軽皇子(かるのみこ:のちの孝徳天皇)に接近後、蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き入れ、中大兄皇子を反蘇我氏の盟主にあおぎます。

645年、皇極天皇が臨席した三韓(百済・高句麗・新羅)の使者を迎える儀式の場で、中大兄皇子らと謀って蘇我入鹿を暗殺し、入鹿の父、蘇我蝦夷を自殺させて蘇我氏の勢力を一掃します(乙巳の変:いっしのへん)。

軽皇子が孝徳天皇となって即位し、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(うちつおみ・ないしん)となって、年号『大化』を定め、公地公民の詔を出して、新しい政治をおしすすめました。

669年、死期の迫った鎌足に、天智天皇は朝廷での最高位である大織冠(だいしょくかん・だいしきかん)の位を授け、藤原の姓を与えました。


大化の改新
狭い意味では、645年に蘇我氏を滅ぼした乙巳の変から元号の大化が終わる650年までにおこなわれた改革を大化の改新といいます。
広い意味では、645年の乙巳の変に始まり、飛鳥時代の孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇の治世におこなわれたさまざまな改革を大化の改新とよびます。

646年(大化2年)、大化の改新の詔(みことのり:天皇による宣言)によって、その後の政治の大方針が決定しました。

1、それまで豪族が私有していた土地(田荘:たどころ)と人民(部民:べのたみ)を没収して天皇の土地、人民とする。・・・(公地公民

2、都を決めて、従来の国(くに)・郡(こおり)・県(あがた、こおり)などを国と郡に整備して、政府が役人を任命する。・・・(国・郡・里制

3、戸籍と計帳を作り、天皇の土地である公地を、天皇の民である公民に貸し与えることにする。・・・(班田収授法

4、それまでの税と労役をやめて、耕地の面積によって税を納めさせる新しい税の仕組みにする。・・・(租・庸・調

改新の詔自体は方針の宣言に過ぎず、その後、飛鳥時代をとおして徐々に実行されていきました。


国・郡・里
701年の大宝律令(たいほうりつりょう)で完成した地方行政組織です。
全国を60ほどのに分けて、2~20里で1、住民50戸で1としました。
国には中央の役人から国司(こくし)を任命し、郡では地方の豪族を郡司(ぐんじ)に採用し、里ではその地の有力者を里長(りちょう・さとおさ)としました。


班田収授法
701年の大宝律令によって実際におこなわれるようになりました。
6年ごとに戸籍を作成し、それによって班田を貸し与えました(六年一班)。
6歳以上の男子に2段(約22アール)、女子に男子の2/3の口分田を貸与し、耕作を認めました。死ぬと国に返す仕組みです。
口分田以外に、身分や職による位田、職田などがありました。


租・庸・調
唐の税制をわが国の実情に合うように修正した税の仕組みです。

耕地の面積に応じて課された税で、田一段につきを二束二把(収穫の約3%)納めました。
種もみとして百姓に貸した利子(出挙:すいこ)が地方の国・郡の財源になりました。

本来、庸とは成人男子が1年間に10日間労役を提供する義務をいいましたが、労役にかえてを2丈6尺納めました。土地にかかる税ではなくて、人にかかる税です。米や塩などで徴収されることもありました。
中央政府の費用にあてられました。
調
各地方の特産物(絹・綿・魚介類・鉄など)を納めました。男子だけが負担した、人にかかる税です。
庸と一緒に都に運ばれて、都の役人の経費にあてられました。


白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い
高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が鼎立していた朝鮮で、新羅と同盟を結んで朝鮮の統一に乗り出し、百済は日本に救援を求めました。
中大兄皇子は、斉明天皇とともに朝鮮への出兵を企てます。このとき、斉明天皇は筑紫の国で病死してしまいます。

660年、百済が滅ぼされた後、661年、百済を復興するために再び倭(日本)の軍隊は朝鮮に出兵しました。
663年、朝鮮の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)で、唐・新羅の連合軍と倭・百済の連合軍が激突します。
この戦いで大敗し、倭の軍は朝鮮から撤退します。

のち、高句麗も滅亡し、朝鮮は新羅によって統一されました。

即位して天智天皇となった中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃に備えて九州に水城(みずき)とよばれる城を築き、全国から兵を徴集して防人(さきもり)として九州を守らせました。
防衛のため、都も、近江の国の大津に移しました。


壬申の乱

天智天皇は672年に亡くなります。
天智天皇の子、大友皇子(おおとものみこ)が弘文天皇となりました。

ところが、天智天皇の弟であった大海人皇子(おおあまのみこ)が、吉野から出て美濃の国へ至り、東国の兵を集めて挙兵します。

豪族の中には、白村江の戦いの敗北や、近江への遷都、急激な改革などに対して不満を持ち、大海人皇子に味方する者も多く、戦いは大海人皇子の軍の勝利に終わります。

673年、大海人皇子は都を近江から飛鳥にもどし、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇となります。


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古墳時代の末期、592年~710年、奈良県の飛鳥(あすか)地方(現在の明日香村)に都が置かれていた時代が飛鳥時代です。

そして、飛鳥時代前期の偉大な政治家とされているのが、厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)です。

593年、最初の女帝である推古天皇摂政となって、家柄に関係なく才能によって役人を採用しようとした冠位十二階や、役人の心得を明文化した十七条憲法を定め、遣隋使を隋に派遣して外国の進んだ文物を取り入れ、法隆寺を建立するなど仏教を中心とした国づくりにつとめたとされています。

厩戸皇子の業績は、日本最初の歴史書である『日本書紀』に詳しく述べられています。

聖徳太子像















(厩戸皇子(聖徳太子)と伝承されてきた像)


厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)の生涯(年表)

574    誕生
父は橘豊日皇子(たちばなのとよひのすめらみこと・蘇我稲目の孫、のちの用明天皇)、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ・蘇我稲目の孫)

585    用明天皇(厩戸皇子の父)即位

587    用明天皇崩御・蘇我馬子(そがのうまこ・厩戸皇子のおじ)に攻められて物部氏滅亡、厩戸皇子も蘇我軍として参加

589    が中国を統一

592    蘇我馬子によって崇峻天皇が暗殺される

593    推古天皇(蘇我稲目の孫、用明天皇の妹、崇峻天皇の姉、厩戸皇子のおば)が即位、厩戸皇子が皇太子となり、摂政となる
四天王寺を建立

594    仏教興隆の詔

595    高句麗より、厩戸皇子の仏教の師、慧慈(えじ)が渡来

600    第1回遣隋使(中国の歴史書『隋書』による)
新羅征討の軍をおこす

601    斑鳩(いかるが)宮の建設を始める

602    新羅征討の軍を計画(厩戸皇子の弟の来目皇子・当麻皇子が指揮)

603    冠位十二階

604    十七条憲法

605    厩戸皇子は斑鳩宮へ移る

607    小野妹子(おののいもこ)らを隋へ派遣(『日本書紀』による)
法隆寺を建立

608    隋より使節の裴世清(はいせいせい)が来る、隋滅亡・唐建国

615    仏教書『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を著す

620    歴史書『国記』『天皇記』完成

622    逝去


厩戸皇子逝去後

628    推古天皇逝去
643    厩戸皇子の子とされる山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族が蘇我入鹿によって滅ぼされる

645    乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)により、蘇我蝦夷、入鹿父子滅亡

670    法隆寺炎上
708    法隆寺再建


仏教・遣隋使・冠位十二階・十七条憲法・飛鳥文化

仏教
豪族の中で最初に仏教を信仰した蘇我氏と結びつきが強かった(父も母も蘇我氏の血をひいている)厩戸皇子は、蘇我馬子の軍に加わって、仏教反対派の物部氏を滅ぼし、蘇我馬子とともに仏教による国づくりをめざします。

物部氏との戦いで戦勝を祈願して、戦後、四天王寺を建立し、父、用明天皇の遺志を継いで斑鳩(いかるが)の地に法隆寺(一度焼失したが、現存する世界最古の木造建築)を創建しました。

また、高句麗から渡来した僧、慧慈(えじ)を学問の師として、中国、朝鮮の制度や文化を学びました。

厩戸皇子(聖徳太子)がおこなったとされる冠位十二階や十七条憲法などの政策は、慧慈を初めとした僧や渡来人がもたらした知識の影響が大きかったと思われます。


遣隋使
220年の漢の滅亡の後、三国時代、五胡十六国、南北朝時代と分裂が続いていた中国をが統一して大帝国を建国したことは、朝鮮からの渡来人を通してわが国の指導者に詳しく伝えられ、その衝撃は大きかったはずです。

早速600年、隋に向けて、最初の使節(遣隋使)を派遣します。
隋の文化を導入し、朝鮮での日本の地位を認めてもらうのが目的でした。
ところがこのとき、隋の皇帝はわが国の政治の様子を使節に尋ね、道理に合っていないと教えさとして帰したとされています(中国の歴史書『隋書』)。

さらに607年、小野妹子らを第2回目の遣隋使として派遣しました。
その際に持参した国書が、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。」で始まる文書です。
大帝国である隋の皇帝と小国の倭の大王(おおきみ)を対等に述べたこの文書に隋の皇帝、煬帝(ようだい)は激怒したとされていますが、当時、朝鮮の高句麗を攻めていた隋はわが国を味方にするのを利と考え、小野妹子の帰国に使節の裴世清(はいせいせい)を同行させました。

先進的な大帝国である隋の制度へのあこがれと、自国が遅れていることの自覚は、蘇我馬子や厩戸王子(聖徳太子)の改革のエネルギーとなったはずです。


冠位十二階
隋は、世界で初めて官吏(役人)の任用試験である科挙を始めた国です。
隋に学んで、家柄に関係なく能力のある人を役人に登用する道を開こうとしたのが冠位十二階です。

大和政権は、国を支配する体制として氏姓制度(しせいせいど・うじかばねせいど)を採用していました。
もともと大和王権の部下であった豪族、のちに大和王権に服従した地方豪族に氏(うじ)と姓(かばね)を与え、氏と姓によって大和王権での地位が決まります。そして、氏と姓は世襲されます。

冠位十二階は、功績や能力によって豪族を再評価し、序列を定めようとしたものです。
氏や姓とは関係のない判定で、家柄に関係なく優秀な人材を採用すること、天皇が任命権を独占することによって豪族の力をおさえ、天皇の権威を回復することをめざしたものです。

大徳・小徳、大仁・小仁、大礼・小礼、大信・小信、大義・小義、大智・小智の12の階級に分け、冠を色で分けて標識としました。

実際の運用では、家柄と冠位が重なっていたこと、上位の豪族は評価からはずされたこと、小野妹子以外に冠位の上昇した例が見られないことなどから、効果は少なかったようです。
中国、朝鮮に対して、わが国も位階制を採用した先進国であることをアピールする意図があったと思われます。


十七条憲法
天皇中心の国家運営を図るために、役人が守るべき心得を明文化したものが十七条憲法(「十七条の憲法」、「憲法十七条」ともいう)です。
わが国最初の、文章にされた「決まり」です。

第一条「和をもってとうとしとなし、さからうことなきをむねとせよ。」が、もっとも有名です。

一、和をなによりも大切にし、争いをおこさないようにしなさい。
二、あつく三宝(仏教・仏教の経典・僧)を信仰しなさい。
三、大王(おおきみ:天皇)の命令には必ず従いなさい。
四、政府の役人は、礼儀を忘れないようにしなさい。
五、役人は賄賂を求めてはならず、訴え事を厳正に裁きなさい。
六、悪をこらしめ、善をすすめなさい。
七、役人は職務を忠実に執行し、みだりに権限を乱用しないようにしなさい。
八、役人は朝は早く出勤し、夕方遅くまで職務に励みなさい。
九、何事をするにも真心をもって臨みなさい。
十、怒らないように、内心の怒りを表情に出さないようにしなさい。
十一、役人をよく観察して、適正な賞罰をおこないなさい。
十二、国司(こくし)・国造(くにのみやつこ)(ともに地方の役人)は勝手に税をとってはいけません。
十三、役人は自分の職務の内容をよく知っておくようにしなさい。
十四、役人は傲慢になったり、嫉妬の気持ちをもってはいけません。
十五、私心を捨て、恨みを持たないようにしなさい。
十六、時期をよく考えて(農業にさしつかえない時期に)人民を使役しなさい。
十七、独断で判断しないで、みんなで議論して判断しなさい。

役人に対して道徳的な教訓を述べたもので、実効性があったかどうかは疑問ですが、天皇からみた当時の役人の非行がどのようなものであったかがうかがわれます(非行が蔓延していたので、それをいましめる法令が必要になったと考えられます)。


飛鳥文化
仏教伝来(538年)から大化の改新(645年)にかけて、厩戸皇子(聖徳太子)が活躍した時代を中心に、飛鳥に都がおかれた時代に栄えた仏教文化を飛鳥文化といいます。
朝鮮の百済や高句麗、隋が統一するまでの南北朝時代の中国の影響を強く受けた文化です。

建築物では、法隆寺の金堂(現存する最古の木造建築)など。
法隆寺の柱のふくらみをエンタシスといい、ギリシャ建築の影響を受けたものだといわれています。

彫刻では、法隆寺の釈迦三尊像(作者は、鞍作鳥(くらつくりのとり))、広隆寺や中宮寺の半跏思惟像(はんかしいぞう)、法隆寺にある工芸品の玉虫厨子(たまむしのずし)、中宮寺にある刺繍のほどこされた天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)など。
唐草模様(からくさもよう)は西アジアから伝わったと推定されています。


聖徳太子は実在したのか

聖徳太子の業績が詳しく述べられた最初は、聖徳太子の死後100年ほど後の奈良時代、720年に完成した歴史書『日本書紀』です。

実証的な歴史学者は早くから日本書紀に聖徳太子の業績と書かれているものに疑いの目を向けていました。
最近は聖徳太子は実在しなかったという説も有力です。

用明天皇の子に厩戸皇子という人が実在したこと、その人が斑鳩に宮(屋敷)をもち法隆寺を創建したことなどは確実なので、聖徳太子から厩戸皇子(聖徳太子)と表記をかえた教科書が増えています。

おそらく、聖徳太子の業績とされているものの多くは、当時の最有力者であった蘇我馬子や馬子に協力した皇族たちの政治を後の世の人が集約したものだと思われます。


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古墳時代後期、飛鳥時代の歴史にしばしば登場する豪族が蘇我氏です。

蘇我稲目(そがのいなめ)、蘇我馬子(そがのうまこ)、蘇我蝦夷(そがのえみし)、蘇我入鹿(そがのいるか)の4代にわたり政治の中枢で権力をふるいました。

蘇我氏は、現在の大阪府石川流域あるいは奈良県橿原市を本拠とした豪族でした。
当時、先進的な技術や学問を伝えて実務にたずさわった渡来人と深く結びつき、富をたくわえました。
また、538年に朝鮮の百済からわが国に仏教が伝わった頃、最初に仏教に帰依し、仏教を保護しました。

蘇我稲目(506?~570年)のとき、大和王権の中で他の豪族は力を失い、大臣(おおおみ)の蘇我氏と、大連(おおむらじ)の物部氏(もののべし)が拮抗して勢力を争いました。

蘇我馬子(551?~626年)のとき、ライバルの物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、聖徳太子と協力して冠位十二階十七条憲法遣隋使などの政策を主導しました。

蘇我蝦夷(586?~645年)のとき、勝手に人民を使役したり、位を授けたりなどの大王(おおきみ)をしのぐような横暴な行為が目立つようになりました。

蘇我入鹿(?~645年)のとき、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって暗殺されました(乙巳(いっし・おっし)の変)。直後、父の蝦夷も自害し、蘇我本家は滅びます。


蘇我氏と関係の深い大王(=天皇:天皇の呼称は40代天武天皇から)
 29代 欽明(きんめい)天皇(539年~571年)…蘇我稲目

 30代 敏達(びたつ)天皇(572年~585年)…蘇我馬子
 31代 用明(ようめい)天皇(585年~587年)…蘇我馬子
 32代 崇峻(すしゅん)天皇(587年~592年)…蘇我馬子
 33代 推古(すいこ)天皇(592年~628年)…蘇我馬子

 34代 舒明(じょめい)天皇(629年~641年)…蘇我蝦夷
 35代 皇極(こうぎょく)天皇(642年~645年)…蘇我蝦夷・蘇我入鹿


蘇我稲目(そがのいなめ)
娘の堅塩媛(きたしひめ:用明天皇、推古天皇の母)と小姉君(あねのきみ:崇峻天皇の母)を欽明天皇の妃としました。

朝鮮の百済聖明王(せいめいおう)の使者が仏像と経典を献上してきたとき、仏教の受容を主張しました。
大連の物部尾輿(もののべのおこし)と連の中臣鎌子(なかとみのかまこ:中大兄皇子と大化の改新をおこなった中臣鎌子(→中臣鎌足)とは別人)は仏像の破壊を主張し、蘇我氏と物部氏が激しく対立することになります。

渡来人と結びつき、朝廷の財務をにぎって勢力を強めました。


蘇我馬子(そがのうまこ)
50年以上にわたって、大臣(おおおみ)として権力をふるいました。

敏達天皇のとき、仏教の信仰をめぐって物部守屋や中臣勝海と激しく対立します。

用明天皇が没し、物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようとしますが、馬子は穴穂部皇子を殺害します。
さらに、馬子は兵を挙げ、苦戦の後、物部氏を攻め滅ぼします。聖徳太子も馬子の軍に加わっていました。

その後、即位した崇峻天皇は、徐々に馬子の専横を憎むようになります。それを知った馬子は崇峻天皇を暗殺してしまいます。

馬子は皇太后の炊屋姫(かしきやひめ)を即位させます。
初の女帝、推古天皇です。
聖徳太子摂政となり、馬子と協力して、冠位十二階十七条憲法遣隋使仏教の奨励などの政策を推進しました。


蘇我蝦夷
推古天皇が亡くなると、舒明天皇を即位させました。

舒明天皇の死後、皇極天皇を擁立します。

皇族の私民を使って蘇我氏の墓所の工事に従事させたり、息子たちを勝手に大臣に任命したり、自らの邸宅を大王の屋敷の呼称である「みかど」と呼ばせたりなどの、天皇をしのごうとした行為があったといわれています。


蘇我入鹿
皇極天皇の即位に伴って父の蝦夷より実権をゆずられました。

蘇我氏を批判し天皇中心の政治を望む声を察知した入鹿は、入鹿の反対派が擁立を図った山背大兄王(聖徳太子の子)一族を滅ぼします。

ところが、権力の絶頂にあったとき、朝鮮からの使者を迎える儀式の場で、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂らによって暗殺されてしまいます(乙巳の変)。

それを知った父の蝦夷も自殺して蘇我氏の時代は終わります。

以後、中大兄皇子や中臣鎌足を中心とした大化の改新が始まることになります。


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