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集団的自衛権、どこか人ごと!? なぜ議論が盛り上がらないのか
http://mainichi.jp/shimen/news/20140625dde012010008000c.html



サムライブルーのユニホームを着た男性(23)は「集団的自衛権? もちろん関心があります。行使容認に賛成。平和憲法だ戦争放棄だと 言っても中国が攻めてきたらどうするんですか」。孫と観戦中の男性(69)も「行使容認、大賛成」。閣議決定による解釈「改憲」という手続きに反対の人はいるが、行使容認には賛成が多い。

別の日、今度は慶応大湘南藤沢キャンパスへ。3人の総合政策学部生に話を聞いた。行使容認にも解釈改憲にも賛成。
「護憲派の上の世代の理想主義って既得権を守ろうとする人と同じにおいがする」という。

3年生(20)は「このままじゃ自衛隊の人に申し訳ない。法整備のないまま手足を縛られて」と嘆く。少子化の日本ではいずれ徴兵制が必要 になるかも、と話を向けると「こういう大学に通う僕が戦場に駆り出される可能性はないと思う。この国で徴兵制は無理。若者は竹やりより弱い。 専門性の高い軍隊に国を守ってほしいから、戦闘員が足りないなら移民を。そのために相当のカネを投入し、法整備も必要」。

それって雇い兵ってこと? 何だろう、この「誰かに守ってもらいたい」的な当事者ではない感じ……。
思わず「身内の戦争験を聞いたことは?」と尋ねると、「全然ないですね」。

別れ際、彼らは言った。「正直、僕らの世代で行使容認に反対の人、ほとんどいないと思いますよ。W杯の時期で愛国心、すごいですから」。
本当にそうなんだろうか。





今の大学生なんて多くがこんなもんなんでしょうか。私も世間的には難関大学と呼ばれる大学に通っていますが戦争なんてニュースの中だけの話っていう学生が殆どです。集団的自衛権行使、解釈改憲に関しても反対だと声高に唱える人もいませんし、多くの人が無関心か賛成にいると思います。

また、今の大学生の世代ではナショナリズムを大事にする人が多い傾向にあると思います。
だから「国を守るために戦おう!(非暴力集団で)」とか、「国を貶める連中を許すな!」みたいな意見があるとそれに凄く流されやすい人が多いです。 ただ、そういう若者の多くは戦争というか自分が戦うことになる事には強い強い拒絶も持っています。

帰属意識も大事です。日本という素晴らしい国に生まれ、その国民であることに誇りを持つことも大切ですが、その帰属意識が他民族への敵意や憎しみにつながりやすいという歴史的教訓を頭に刻んでおくことは大事ですね。第一次大戦にしても、第二次大戦にしても、その後の世界各地の民族紛争を見ても、ナショナリズムの高まりが排外主義や他民族への憎しみへと変化し、戦争の発端となっています。

少々話がそれましたが、集団的自衛権を持つと、例えばですが、イラク戦争のような証拠も全てアメリカがでっちあげた戦争に参加することになるかもしれません。実際に当時の小泉総理は世界で一番早くアメリカのイラク攻撃へ支持を表明しました。
こういった戦争により命を落とすことになるのは自衛隊員の方々であり、また多くの憎しみを買ってしまう恐れもあります。
集団的自衛権に賛成反対いずれの立場の人もいるでしょうが、いずれにしても国民的議論を重ねることが大事です。

いよいよ本日解釈改憲の閣議決定が行われますが、今後国民の間で理解・思慮を深めていく事が何よりも必要となってきますね。自衛隊の人が命をかけて戦うという事態が起こらないとも限らないんですから。
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天台宗の開祖、最澄の有名な言葉に、『照千一隅 此則国宝』があります。(いろいろな読み方があるようですが、私は「一隅(いちぐう)を照らす、これ則(すなわ)ち国の宝なり」と読むのが一番好きなので、そう読んでいます)。

一般には、「偉くならなくてもいいではないか、社会の片隅で自分にできる精一杯の努力をし続けたらよい。それが一番社会に貢献したことになるのだ」といったニュアンスで解釈されています。

私の好きな言葉であり、この言葉を励みに仕事をしてきたと言っても過言ではありません。

ところで、最近、世界の中での日本の地位低下がしきりに言われています。中国や韓国に完全に負けてしまったとまで言われることも多い。

私は、負けてもいいではないか、と思っています。

その「負けてもいいではないか」のよりどころが、「一隅を照らす、これ則ち国の宝なり」でした。

日本人は、「一隅を照らす」を人生の指針として生きてきた民族であり、良質な工業製品が世界中を席巻し、経済大国と呼ばれる存在になったのも、工場や会社の隅(すみ)っこで自分の持ち場を守って営々と努力を積み重ねた名もない人々の集合知がたまたまもたらした結果に過ぎないのであって、大国になってやろうという野望をもって経済成長をとげてきたわけではない。
たとえ一時、よその国に負けて見下ろされる存在になったとしても、「一隅を照らす」が日本人の価値観の根底にある限り、また日本という国は立ち上がるであろうし、結局は勝ち残るであろう。

そんなことをぼんやりと思っていたのでした。

世界中のどの国を見渡しても、「一隅を照らす」で一生を終えるくらいなら見栄でもハッタリでもいいから偉くなって人の上に立ってやろうと思っているような国ばかりだから、日本人の根本精神が「一隅を照らす」である限り、日本人であることが実は一番幸せなのではないかとも思っていました。


最澄の言葉は違っていた

ところが、この最澄の書き残した言葉、仏教界では、実は本当は違う意味だということで決着がついているようです。

長いこと、『照一隅 此則国宝』と読み、私が上で述べたような意味で解釈されてきました。

ところが、最澄の真筆をちゃんと見ると、どう見ても『照一隅 此則国宝』である。『干』ではなくて『千』だとすると、「一隅にありながら千里を照らす逸材こそが国の宝である」と読まないといけない。

最澄が踏まえた中国の出展の原義も、「千里を照らす優れた才」の意味だそうです。

さらに、「一隅」に、隅(すみ)っこなんて意味はない。「今存在するその場所」というそれだけの意味らしい。

新しい解釈だと、『照一隅 此則国宝』は、「どこにいても才能のある人はその才能で千里を照らす、そういう人こそ国の宝である(だから、為政者は才能のある人を見出し、抜擢しないといけない)」くらいの意味になります。
私が思っていたような謙虚な意味はまったく含まれていないことになります。

「最澄ほどの人が、世間のすみっこでチマチマ頑張っていろなんて小さいことを言うはずがない」とか、「偉くならなくてもいいなんて、最澄はなんとケツの穴の小さい奴だ(司馬遼太郎さんの言葉だそうです)」とかの批判もあったようで、仏教界では新しい解釈で最澄の「名誉回復」がなったと評価されているらしい。


誤った解釈こそ日本人の知恵

中国で尊敬される人のパターンとして、地方で不遇な地位にあった人材が、才を見出されて出世するというのがよくあるので、多分、『照千一隅』の元の意味は「千里を照らす才」という意味でしょう。

最澄も、遣唐使で中国に渡り、当時の先進国の知識を日本に広めようとした人ですから、中国人が望んでいる、「偉人が千里を照らす」理想を、語り伝えたのでしょう。

ところが最澄の「期待に反して」、日本人は、自分たちの心の琴線にふれるように、この言葉を、「社会の片隅でこつこつと自分の職務を精一杯遂行することこそ実は最も尊いのだ」という謙虚な意味に改訳してしまったのではないでしょうか。

日本では、「偉い」人(というか、偉くなりたい人)は尊敬されません。私たちは潜在意識の中で、どうも「偉い人」が突出するのを忌み嫌っているような気がします。


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