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2013年09月

律令制度の完成期~動揺期にあたる奈良時代(710年~794年)に、26年間(724年~749年)天皇として在位したのが聖武天皇です。

聖武天皇聖武天皇は、文武天皇を父、藤原不比等の娘の宮子を母として生まれました。皇后は不比等の娘の光明(こうみょう)皇后です。

当時、口分田が不足してきたので、開墾をすすめて耕地を増やすために、723年、三世一身法(さんぜいっしんのほう)が出されましたが、聖武天皇の天平15年(743年)、さらに耕地の開拓を進めるために墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)が制定されました。

疫病(天然痘など)の流行や、長屋王(ながやおう)の変藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱などの政治不安をうれえた聖武天皇は、仏教の力で国の平安を保とうとしました。
741年、詔(みことのり)を出して全国に国分寺国分尼寺の建立を命じ、745年には総国分寺として東大寺の造営を命じました。
行基(ぎょうき)などの協力で、752年東大寺大仏の開眼供養(かいげんくよう)がおこなわれました。

聖武天皇の皇后が、皇族以外から始めて皇后に立てられた藤原不比等の娘光明皇后です。仏教を深く信仰し、孤児や貧民を救済する施設である悲田院(ひでんいん)や、薬を与える施設施薬院(せやくいん)を設けました。
聖武天皇の死後、夫の遺品を東大寺に寄進し、遺品の宝物(ほうもつ)を納める校倉造(あぜくらづくり)の正倉院が東大寺の境内につくられました。


藤原鎌足、藤原不比等以後、勢力を拡大した藤原氏がさらに天皇家と深く結びつこうとして擁立したのが聖武天皇です。
長屋王の変は、皇族でない光明子を皇后にするために藤原氏が長屋王を失脚させた政変です。

ところが、737年、藤原不比等の子である藤原四家の武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)が都で流行した疫病によって病没します。

聖武天皇は、藤原氏から距離をおき、
吉備真備(きびのまきび)、僧の玄昉(げんぼう)、橘諸兄(たちばなのもろえ)などを登用してみずから政治をおこないました。
藤原広嗣の乱は、橘諸兄などを排除しようとした一部の藤原氏のたくらみでしたが、失敗します。

聖武天皇は平城京を出て、いくつかの都の造営を計画します(恭仁京(くにきょう:現在の京都府木津川市)→紫香楽宮(しがらきのみや:現在の滋賀県甲賀市)→難波宮(なにわのみや:現在の大阪市)→紫香楽宮)。

また、仏教に帰依し、莫大な国費を費やして国分寺国分尼寺東大寺などを建立しました。

公地公民によって中央政府の財源が充実したことによって大規模な工事や寺院の造営が可能になったわけですが、他方、都では疫病や政変が起こり、地方では農民が困窮化するなど、政治の矛盾も表面化し始めました。
聖武天皇は、律令政治絶頂期から動揺崩壊期にかけて在位した天皇だといえます。


聖武天皇の生涯(年表)

701年 藤原京で文武天皇と宮子(藤原不比等の娘)との間に誕生

707年 文武天皇崩御、文武天皇の母(聖武天皇の祖母)の元明天皇即位

710年 平城京遷都

714年 首皇子(おびとのおうじ:後の聖武天皇)皇太子に

715年 元正天皇(文武天皇の姉、聖武天皇の伯母)即位

716年 首皇子、藤原不比等の娘の光明子(後の光明皇后)を夫人に

720年 藤原不比等、死去

723年 三世一身法

724年 聖武天皇、即位

729年 左大臣の長屋王が謀反を疑われ自殺(長屋王の変)、光明子が光明皇后に

730年 光明皇后、悲田院・施薬院を設ける

735年 遣唐使で唐に渡っていた吉備真備、僧玄昉、唐より帰国

737年 藤原房前、藤原麻呂、藤原武智麻呂、藤原宇合の順に疫病で死去

738年 橘諸兄を右大臣に

740年 藤原広嗣、九州で兵を挙げ反乱(藤原広嗣の乱

741年 国分寺・国分尼寺建立の詔

743年 墾田永年私財法

745年 行基、大僧正に

748年 聖武天皇と光明皇后の娘、孝謙天皇が即位 

752年 東大寺大仏開眼供養

753年 唐の僧、鑑真が来日

754年 聖武太上天皇が崩御、光明皇太后が遺品を東大寺に寄進

760年 光明皇太后死去


三世一身法・墾田永年私財法

三世一身法

班田収授法による公地公民によって政府の財政が安定したことで国民生活も安定し、人口が増加し食料が不足し始めました。また、政府の費用も増え続けました。
そこで、政府は耕地を開拓させて耕作田を増加させる政策をとります。

開墾をした人を優遇することで国民が自発的に開墾することをねらって、723年に制定された法が三世一身法(さんぜいっしんのほう)です。

灌漑施設(かんがいしせつ:水路や池などの農地に水をひく施設)を新たに作って田を開いたときは、三世(本人・子・孫、または子・孫・ひ孫)まで土地の私有を認め、既存の灌漑施設を利用して田を開いたときは一身(本人)の私有を認めることを内容とします。

開墾した土地に限ってですが、耕地の私有を認めたことで、結果的に公地公民の例外を許容する道を開いたことになります。


墾田永年私財法

三世一身法では、期待したような耕地の開拓が進みませんでした。

3代で国に土地を取られるので、それを嫌って開拓が進まないのではないかと考えた政府は、聖武天皇の名で743年墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)を制定し、開墾して耕作田を増やした者に永久の土地私有を認めることにしました。

開墾をしようとするものは国司を通して国に開墾の申請をします。農民の耕作をさまたげるおそれのある土地の申請は認められません。また、申請後3年以内に開墾をしないと申請の効力を失います。
私有を認められる土地の広さは、貴族の場合は位階によって500町から100町までという制限があり、庶民の場合は10町までとされました。

「農民の耕作をさまたげてはならない」、「大貴族ほど広い土地の私有が認められる」などの条文から、実際に開墾をして土地の私有をしたのは高位の貴族や大寺院であったことがうかがわれます。
墾田永年私財法そのものが、藤原氏などの貴族大寺院が有利になるような内容を含んでいるわけです。

墾田永年私財法によって、公地公民の制度は崩れていったとされています。
大貴族や大寺院の土地の私有が進み、やがて荘園と呼ばれるようになります。

その荘園を経済的な基盤にして、平安時代初期の藤原氏の全盛時代がもたらされるわけです。


天平文化


聖武天皇の天平時代(729~749年)を中心に栄えた文化を天平(てんぴょう)文化といいます。
の文化の影響をうけた、貴族階級による仏教文化です。唐を通してインド・ペルシャ・アラビアの文化も流入しました。

建築では、校倉造の正倉院、東大寺法華堂、唐招提寺金堂など。

美術品では、東大寺にある日光菩薩(にっこうぼさつ)像・月光菩薩(がっこうぼさつ)像、正倉院にある鳥毛立女屏風(とりげたちおんなびょうぶ)、興福寺の阿修羅(あしゅら)像,唐招提寺の鑑真和上(がんじんわじょう)像、薬師寺の吉祥天画像(きちじょうてんがぞう)など。

書物では、最古の漢詩集である『懐風藻(かいふうそう)』、歴史書として太安万侶(おおのやすまろ)による『古事記』、舎人親王(とねりしんのう)による『日本書紀』、各地の特産物や伝説をまとめた『風土記(ふどき)』、わが国最初の和歌集で天皇、貴族から農民の歌まで4500首をおさめた『万葉集』などが天平文化にふくまれます。


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飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけて活躍した政治家が藤原不比等(ふじわらのふひと)です。

天武天皇(在位:673~686)、持統天皇(在位:686~697、天武天皇の后)の治世の後、文武(もんむ)天皇(在位:697~707、天武天皇の孫)、元明(げんめい)天皇(在位:707~715、文武天皇の母)、元正(げんしょう)天皇(在位:715~724、文武天皇の姉)の時代に活躍しました。

藤原不比等は大化の改新に功績のあった中臣鎌足(藤原鎌足)の次男です。

また、不比等の子、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)が、藤原四家の南家・北家・式家・京家となり、不比等の子孫が後の摂関政治をにないます。

さらに、不比等の娘宮子は文武天皇の后となって聖武天皇を産み、不比等と県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)との娘光明子は聖武天皇に嫁いで光明皇后となります。

直接明示する歴史資料はほとんどありませんが、701年の大宝律令の制定、710年の平城京遷都や、古事記日本書紀の編纂などを実質的に推進したのは藤原不比等だとされています。


藤原不比等の生涯(年表)

659年 中臣鎌足の第二子として誕生

669年 中臣鎌足、天智天皇より藤原の姓を賜る

672年 (壬申の乱)

673年 (天武天皇即位)

686年 (持統天皇称制)

689年 不比等31歳のとき、従五位下の判事となる(不比等の名が史書に表れた最初)

697年 文武天皇即位

701年 大宝律令

707年 元明天皇即位

708年 和同開珎(わどうかいちん)

710年 平城京遷都

712年 古事記(太安万侶)

715年 元正天皇即位

720年 日本書紀(舎人親王)、藤原不比等死去

724年 聖武天皇即位


大宝律令
近江令(天智天皇)、飛鳥浄御原令(天武天皇)についで、701年に制定された、律を備えた最初の本格的な律令(法律)です。

藤原不比等刑部親王(おさかべのみこ:忍壁皇子とも表記)が責任者になって編纂したとされています。
中国(特に)の法制である律令を模範として、わが国に導入しました。

刑法にあたるは、ほぼ唐の律をそのまま踏襲しました。

行政法にあたるは、わが国の実情に合わせたものになっています。
中央に役所として二官(太政官・神祇官)と八省(中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)を置くこと、公文書には元号を用いること、地方の単位である国・郡・里に国司・郡司を任命することなどを定めました。

大宝律令は逸失して原文は不明ですが、757年に制定された養老律令などによって大宝律令の内容を推定することができるのだそうです。


平城京(へいじょうきょう・へいぜいきょう)
わが国最初の本格的な都は、持統天皇の時代に、現在の奈良県橿原市に造営された藤原京です。

藤原京が手狭になったので、710年元明天皇のとき、の都長安(ちょうあん:現在の西安(しーあん))にならって大規模な都を現在の奈良市に建設したのが平城京です。
784年に長岡京(現在の京都府向日市・長岡京市など)に移るまで、奈良がわが国の首都でした。

大規模な首都を建設することで、内外に天皇と朝廷の権威を示すことを目的としました。

平城京は、当時、ほぼ10万人の人が住んでいました。
東西南北に道路が桝目(ますめ)状に整備された条坊制が特徴です。
平城京跡からは、字を書きとめた木の札である木簡(もっかん)が多数発見され、当時の様子を知る手がかりとなっています。

平城京への遷都の理由として、旧豪族の勢力が残る飛鳥に近い藤原京から離れた地に遷都することで律令政治の徹底を図ろうとした藤原不比等の意志があったといわれています。


和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)
日本で最古の貨幣は、683年頃につくられた富本銭(ふほんせん)です。 
実際に流通したのか、まじない用に使われただけなのか、わかっていません。

708年、武蔵国秩父(現在の埼玉県秩父市)から銅が献上されたのを機に、元号を和銅と改め、唐の貨幣を模範として作られた最初の流通貨幣が和同開珎です。

和同開珎以降、958年まで政府が発行した貨幣をまとめて皇朝12銭といいます。

奈良時代はまだ物々交換や米などを貨幣代わりに利用する経済だったので、貨幣は都近くの畿内以外にはほとんど流通しませんでした。


日本書紀
720年舎人親王(とねりしんのう)らが編纂し、元正天皇のときに成立した、わが国で最初の正史(国家によって編纂された歴史書)です。
神代より持統天皇の治世までのわが国の歴史が、漢文、編年体で記述されています。

中国の歴史書を模範に、天皇と大和朝廷の権威を高めることを目的に編纂されました。
日本書紀の天武天皇10年(681年)の条に、「天武天皇が歴史書の編纂を命じた」という趣旨の記述があることから、天武天皇の時代に作成が始まり、元正天皇のとき、720年に完成したことが明らかです。

天皇家以外の豪族の家記や、官庁の記録、個人の日記、寺院の縁起類、中国の史書や朝鮮の資料など多くの資料を引用した内容となっています。

編纂を命じた天武天皇や、当時の実力者である藤原不比等の意向をくんで、天武天皇、藤原氏に有利な記述に偏っているという学説も有力です。

同時代、日本書紀よりやや早く成立した歴史書としては、天武天皇が命じた稗田阿礼(ひえだのあれ)の口述を、元明天皇の命により太安万侶(おおのやすまろ)が書き取ったとされる古事記があります。


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古墳時代の末期、592年~710年、奈良県の飛鳥(あすか)地方(現在の明日香村)に都が置かれていた時代が飛鳥時代です。

そして、飛鳥時代中期に政治の大改革をおこなったのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:天智天皇)です。

奈良時代の歴史書『日本書紀』などによると、645年、中大兄皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと協力して蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)を倒しました(乙巳の変(いっし(おっし)のへん))。

中大兄皇子と中臣鎌足は、日本最初の年号を「大化」と決め、大化の改新の詔(みことのり)によって、豪族の持っていた土地と人民を国のものとする公地公民、地方を国と郡と里に分けて国司・郡司・里長を置く国郡里制、戸籍を作って国民に口分田を与えて耕作させる班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)、米と布と地方の特産物を税として納めさせる租・庸・調(そ・よう・ちょう)を始めました。

また、百済を助けるために朝鮮に出兵しますが、唐と新羅の連合軍と戦って白村江(はくすきのえ(はくそんこう))の戦いで敗北します。

天智天皇(てんじ(てんち)てんのう)となった後、最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作り、最初の律令である近江令(おうみりょう)を制定しました。


中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:天智天皇)の生涯(年表)

618 隋を倒してが建国

626 誕生
父は舒明(じょめい)天皇、母はのちの皇極(こうぎょく)天皇(のち再び即位して斉明(さいめい)天皇)の第二皇子として生まれる。

641 舒明天皇が崩御

642 皇極天皇が即位

645 皇極天皇の眼前で中臣鎌足らと蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷自殺(乙巳の変
舒明天皇の弟である孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子

646 大化改新の詔(たいかのかいしんのみことのり)

652 班田収授法(はんでんしゅじゅのほう)

655 皇極天皇が斉明天皇として再び即位

661 百済を救うために朝鮮へ出兵、同行した斉明天皇が筑紫国で崩御

663 白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北

667 都を飛鳥から近江大津宮に移す

668 天智天皇として即位

669 中臣鎌足死去

670 庚午年籍をつくる

671 近江令をつくる
天智天皇崩御


天智天皇崩御の後

672 天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)と、天智天皇の弟とされる大海人皇子(おおあまのみこ)が皇位をめぐって戦う(壬申の乱(じんしんのらん)
勝った大海人皇子が天武天皇として即位


中臣鎌足・大化の改新・白村江の戦い・壬申の乱

中臣鎌足(614~669年:中臣鎌子・藤原鎌足)
朝廷の祭祀(さいし)をつかさどっていた豪族の中臣氏に生まれました。
鎌足の次男が藤原氏繁栄の基礎を築いた藤原不比等、娘2人は天武天皇の夫人です。

遣隋使の一員で中国で学んだ僧旻(みん)に、若い頃、蘇我入鹿とともに易学を学びました。

家業である祭祀の職を継がずに隠棲し、当時、天皇家をしのぐ勢いがあった蘇我氏を打倒する策を練りました。
軽皇子(かるのみこ:のちの孝徳天皇)に接近後、蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き入れ、中大兄皇子を反蘇我氏の盟主にあおぎます。

645年、皇極天皇が臨席した三韓(百済・高句麗・新羅)の使者を迎える儀式の場で、中大兄皇子らと謀って蘇我入鹿を暗殺し、入鹿の父、蘇我蝦夷を自殺させて蘇我氏の勢力を一掃します(乙巳の変:いっしのへん)。

軽皇子が孝徳天皇となって即位し、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(うちつおみ・ないしん)となって、年号『大化』を定め、公地公民の詔を出して、新しい政治をおしすすめました。

669年、死期の迫った鎌足に、天智天皇は朝廷での最高位である大織冠(だいしょくかん・だいしきかん)の位を授け、藤原の姓を与えました。


大化の改新
狭い意味では、645年に蘇我氏を滅ぼした乙巳の変から元号の大化が終わる650年までにおこなわれた改革を大化の改新といいます。
広い意味では、645年の乙巳の変に始まり、飛鳥時代の孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇の治世におこなわれたさまざまな改革を大化の改新とよびます。

646年(大化2年)、大化の改新の詔(みことのり:天皇による宣言)によって、その後の政治の大方針が決定しました。

1、それまで豪族が私有していた土地(田荘:たどころ)と人民(部民:べのたみ)を没収して天皇の土地、人民とする。・・・(公地公民

2、都を決めて、従来の国(くに)・郡(こおり)・県(あがた、こおり)などを国と郡に整備して、政府が役人を任命する。・・・(国・郡・里制

3、戸籍と計帳を作り、天皇の土地である公地を、天皇の民である公民に貸し与えることにする。・・・(班田収授法

4、それまでの税と労役をやめて、耕地の面積によって税を納めさせる新しい税の仕組みにする。・・・(租・庸・調

改新の詔自体は方針の宣言に過ぎず、その後、飛鳥時代をとおして徐々に実行されていきました。


国・郡・里
701年の大宝律令(たいほうりつりょう)で完成した地方行政組織です。
全国を60ほどのに分けて、2~20里で1、住民50戸で1としました。
国には中央の役人から国司(こくし)を任命し、郡では地方の豪族を郡司(ぐんじ)に採用し、里ではその地の有力者を里長(りちょう・さとおさ)としました。


班田収授法
701年の大宝律令によって実際におこなわれるようになりました。
6年ごとに戸籍を作成し、それによって班田を貸し与えました(六年一班)。
6歳以上の男子に2段(約22アール)、女子に男子の2/3の口分田を貸与し、耕作を認めました。死ぬと国に返す仕組みです。
口分田以外に、身分や職による位田、職田などがありました。


租・庸・調
唐の税制をわが国の実情に合うように修正した税の仕組みです。

耕地の面積に応じて課された税で、田一段につきを二束二把(収穫の約3%)納めました。
種もみとして百姓に貸した利子(出挙:すいこ)が地方の国・郡の財源になりました。

本来、庸とは成人男子が1年間に10日間労役を提供する義務をいいましたが、労役にかえてを2丈6尺納めました。土地にかかる税ではなくて、人にかかる税です。米や塩などで徴収されることもありました。
中央政府の費用にあてられました。
調
各地方の特産物(絹・綿・魚介類・鉄など)を納めました。男子だけが負担した、人にかかる税です。
庸と一緒に都に運ばれて、都の役人の経費にあてられました。


白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い
高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が鼎立していた朝鮮で、新羅と同盟を結んで朝鮮の統一に乗り出し、百済は日本に救援を求めました。
中大兄皇子は、斉明天皇とともに朝鮮への出兵を企てます。このとき、斉明天皇は筑紫の国で病死してしまいます。

660年、百済が滅ぼされた後、661年、百済を復興するために再び倭(日本)の軍隊は朝鮮に出兵しました。
663年、朝鮮の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)で、唐・新羅の連合軍と倭・百済の連合軍が激突します。
この戦いで大敗し、倭の軍は朝鮮から撤退します。

のち、高句麗も滅亡し、朝鮮は新羅によって統一されました。

即位して天智天皇となった中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃に備えて九州に水城(みずき)とよばれる城を築き、全国から兵を徴集して防人(さきもり)として九州を守らせました。
防衛のため、都も、近江の国の大津に移しました。


壬申の乱

天智天皇は672年に亡くなります。
天智天皇の子、大友皇子(おおとものみこ)が弘文天皇となりました。

ところが、天智天皇の弟であった大海人皇子(おおあまのみこ)が、吉野から出て美濃の国へ至り、東国の兵を集めて挙兵します。

豪族の中には、白村江の戦いの敗北や、近江への遷都、急激な改革などに対して不満を持ち、大海人皇子に味方する者も多く、戦いは大海人皇子の軍の勝利に終わります。

673年、大海人皇子は都を近江から飛鳥にもどし、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇となります。


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古墳時代の末期、592年~710年、奈良県の飛鳥(あすか)地方(現在の明日香村)に都が置かれていた時代が飛鳥時代です。

そして、飛鳥時代前期の偉大な政治家とされているのが、厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)です。

593年、最初の女帝である推古天皇摂政となって、家柄に関係なく才能によって役人を採用しようとした冠位十二階や、役人の心得を明文化した十七条憲法を定め、遣隋使を隋に派遣して外国の進んだ文物を取り入れ、法隆寺を建立するなど仏教を中心とした国づくりにつとめたとされています。

厩戸皇子の業績は、日本最初の歴史書である『日本書紀』に詳しく述べられています。

聖徳太子像















(厩戸皇子(聖徳太子)と伝承されてきた像)


厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)の生涯(年表)

574    誕生
父は橘豊日皇子(たちばなのとよひのすめらみこと・蘇我稲目の孫、のちの用明天皇)、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ・蘇我稲目の孫)

585    用明天皇(厩戸皇子の父)即位

587    用明天皇崩御・蘇我馬子(そがのうまこ・厩戸皇子のおじ)に攻められて物部氏滅亡、厩戸皇子も蘇我軍として参加

589    が中国を統一

592    蘇我馬子によって崇峻天皇が暗殺される

593    推古天皇(蘇我稲目の孫、用明天皇の妹、崇峻天皇の姉、厩戸皇子のおば)が即位、厩戸皇子が皇太子となり、摂政となる
四天王寺を建立

594    仏教興隆の詔

595    高句麗より、厩戸皇子の仏教の師、慧慈(えじ)が渡来

600    第1回遣隋使(中国の歴史書『隋書』による)
新羅征討の軍をおこす

601    斑鳩(いかるが)宮の建設を始める

602    新羅征討の軍を計画(厩戸皇子の弟の来目皇子・当麻皇子が指揮)

603    冠位十二階

604    十七条憲法

605    厩戸皇子は斑鳩宮へ移る

607    小野妹子(おののいもこ)らを隋へ派遣(『日本書紀』による)
法隆寺を建立

608    隋より使節の裴世清(はいせいせい)が来る、隋滅亡・唐建国

615    仏教書『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を著す

620    歴史書『国記』『天皇記』完成

622    逝去


厩戸皇子逝去後

628    推古天皇逝去
643    厩戸皇子の子とされる山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族が蘇我入鹿によって滅ぼされる

645    乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)により、蘇我蝦夷、入鹿父子滅亡

670    法隆寺炎上
708    法隆寺再建


仏教・遣隋使・冠位十二階・十七条憲法・飛鳥文化

仏教
豪族の中で最初に仏教を信仰した蘇我氏と結びつきが強かった(父も母も蘇我氏の血をひいている)厩戸皇子は、蘇我馬子の軍に加わって、仏教反対派の物部氏を滅ぼし、蘇我馬子とともに仏教による国づくりをめざします。

物部氏との戦いで戦勝を祈願して、戦後、四天王寺を建立し、父、用明天皇の遺志を継いで斑鳩(いかるが)の地に法隆寺(一度焼失したが、現存する世界最古の木造建築)を創建しました。

また、高句麗から渡来した僧、慧慈(えじ)を学問の師として、中国、朝鮮の制度や文化を学びました。

厩戸皇子(聖徳太子)がおこなったとされる冠位十二階や十七条憲法などの政策は、慧慈を初めとした僧や渡来人がもたらした知識の影響が大きかったと思われます。


遣隋使
220年の漢の滅亡の後、三国時代、五胡十六国、南北朝時代と分裂が続いていた中国をが統一して大帝国を建国したことは、朝鮮からの渡来人を通してわが国の指導者に詳しく伝えられ、その衝撃は大きかったはずです。

早速600年、隋に向けて、最初の使節(遣隋使)を派遣します。
隋の文化を導入し、朝鮮での日本の地位を認めてもらうのが目的でした。
ところがこのとき、隋の皇帝はわが国の政治の様子を使節に尋ね、道理に合っていないと教えさとして帰したとされています(中国の歴史書『隋書』)。

さらに607年、小野妹子らを第2回目の遣隋使として派遣しました。
その際に持参した国書が、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。」で始まる文書です。
大帝国である隋の皇帝と小国の倭の大王(おおきみ)を対等に述べたこの文書に隋の皇帝、煬帝(ようだい)は激怒したとされていますが、当時、朝鮮の高句麗を攻めていた隋はわが国を味方にするのを利と考え、小野妹子の帰国に使節の裴世清(はいせいせい)を同行させました。

先進的な大帝国である隋の制度へのあこがれと、自国が遅れていることの自覚は、蘇我馬子や厩戸王子(聖徳太子)の改革のエネルギーとなったはずです。


冠位十二階
隋は、世界で初めて官吏(役人)の任用試験である科挙を始めた国です。
隋に学んで、家柄に関係なく能力のある人を役人に登用する道を開こうとしたのが冠位十二階です。

大和政権は、国を支配する体制として氏姓制度(しせいせいど・うじかばねせいど)を採用していました。
もともと大和王権の部下であった豪族、のちに大和王権に服従した地方豪族に氏(うじ)と姓(かばね)を与え、氏と姓によって大和王権での地位が決まります。そして、氏と姓は世襲されます。

冠位十二階は、功績や能力によって豪族を再評価し、序列を定めようとしたものです。
氏や姓とは関係のない判定で、家柄に関係なく優秀な人材を採用すること、天皇が任命権を独占することによって豪族の力をおさえ、天皇の権威を回復することをめざしたものです。

大徳・小徳、大仁・小仁、大礼・小礼、大信・小信、大義・小義、大智・小智の12の階級に分け、冠を色で分けて標識としました。

実際の運用では、家柄と冠位が重なっていたこと、上位の豪族は評価からはずされたこと、小野妹子以外に冠位の上昇した例が見られないことなどから、効果は少なかったようです。
中国、朝鮮に対して、わが国も位階制を採用した先進国であることをアピールする意図があったと思われます。


十七条憲法
天皇中心の国家運営を図るために、役人が守るべき心得を明文化したものが十七条憲法(「十七条の憲法」、「憲法十七条」ともいう)です。
わが国最初の、文章にされた「決まり」です。

第一条「和をもってとうとしとなし、さからうことなきをむねとせよ。」が、もっとも有名です。

一、和をなによりも大切にし、争いをおこさないようにしなさい。
二、あつく三宝(仏教・仏教の経典・僧)を信仰しなさい。
三、大王(おおきみ:天皇)の命令には必ず従いなさい。
四、政府の役人は、礼儀を忘れないようにしなさい。
五、役人は賄賂を求めてはならず、訴え事を厳正に裁きなさい。
六、悪をこらしめ、善をすすめなさい。
七、役人は職務を忠実に執行し、みだりに権限を乱用しないようにしなさい。
八、役人は朝は早く出勤し、夕方遅くまで職務に励みなさい。
九、何事をするにも真心をもって臨みなさい。
十、怒らないように、内心の怒りを表情に出さないようにしなさい。
十一、役人をよく観察して、適正な賞罰をおこないなさい。
十二、国司(こくし)・国造(くにのみやつこ)(ともに地方の役人)は勝手に税をとってはいけません。
十三、役人は自分の職務の内容をよく知っておくようにしなさい。
十四、役人は傲慢になったり、嫉妬の気持ちをもってはいけません。
十五、私心を捨て、恨みを持たないようにしなさい。
十六、時期をよく考えて(農業にさしつかえない時期に)人民を使役しなさい。
十七、独断で判断しないで、みんなで議論して判断しなさい。

役人に対して道徳的な教訓を述べたもので、実効性があったかどうかは疑問ですが、天皇からみた当時の役人の非行がどのようなものであったかがうかがわれます(非行が蔓延していたので、それをいましめる法令が必要になったと考えられます)。


飛鳥文化
仏教伝来(538年)から大化の改新(645年)にかけて、厩戸皇子(聖徳太子)が活躍した時代を中心に、飛鳥に都がおかれた時代に栄えた仏教文化を飛鳥文化といいます。
朝鮮の百済や高句麗、隋が統一するまでの南北朝時代の中国の影響を強く受けた文化です。

建築物では、法隆寺の金堂(現存する最古の木造建築)など。
法隆寺の柱のふくらみをエンタシスといい、ギリシャ建築の影響を受けたものだといわれています。

彫刻では、法隆寺の釈迦三尊像(作者は、鞍作鳥(くらつくりのとり))、広隆寺や中宮寺の半跏思惟像(はんかしいぞう)、法隆寺にある工芸品の玉虫厨子(たまむしのずし)、中宮寺にある刺繍のほどこされた天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)など。
唐草模様(からくさもよう)は西アジアから伝わったと推定されています。


聖徳太子は実在したのか

聖徳太子の業績が詳しく述べられた最初は、聖徳太子の死後100年ほど後の奈良時代、720年に完成した歴史書『日本書紀』です。

実証的な歴史学者は早くから日本書紀に聖徳太子の業績と書かれているものに疑いの目を向けていました。
最近は聖徳太子は実在しなかったという説も有力です。

用明天皇の子に厩戸皇子という人が実在したこと、その人が斑鳩に宮(屋敷)をもち法隆寺を創建したことなどは確実なので、聖徳太子から厩戸皇子(聖徳太子)と表記をかえた教科書が増えています。

おそらく、聖徳太子の業績とされているものの多くは、当時の最有力者であった蘇我馬子や馬子に協力した皇族たちの政治を後の世の人が集約したものだと思われます。


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古墳時代後期、飛鳥時代の歴史にしばしば登場する豪族が蘇我氏です。

蘇我稲目(そがのいなめ)、蘇我馬子(そがのうまこ)、蘇我蝦夷(そがのえみし)、蘇我入鹿(そがのいるか)の4代にわたり政治の中枢で権力をふるいました。

蘇我氏は、現在の大阪府石川流域あるいは奈良県橿原市を本拠とした豪族でした。
当時、先進的な技術や学問を伝えて実務にたずさわった渡来人と深く結びつき、富をたくわえました。
また、538年に朝鮮の百済からわが国に仏教が伝わった頃、最初に仏教に帰依し、仏教を保護しました。

蘇我稲目(506?~570年)のとき、大和王権の中で他の豪族は力を失い、大臣(おおおみ)の蘇我氏と、大連(おおむらじ)の物部氏(もののべし)が拮抗して勢力を争いました。

蘇我馬子(551?~626年)のとき、ライバルの物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、聖徳太子と協力して冠位十二階十七条憲法遣隋使などの政策を主導しました。

蘇我蝦夷(586?~645年)のとき、勝手に人民を使役したり、位を授けたりなどの大王(おおきみ)をしのぐような横暴な行為が目立つようになりました。

蘇我入鹿(?~645年)のとき、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって暗殺されました(乙巳(いっし・おっし)の変)。直後、父の蝦夷も自害し、蘇我本家は滅びます。


蘇我氏と関係の深い大王(=天皇:天皇の呼称は40代天武天皇から)
 29代 欽明(きんめい)天皇(539年~571年)…蘇我稲目

 30代 敏達(びたつ)天皇(572年~585年)…蘇我馬子
 31代 用明(ようめい)天皇(585年~587年)…蘇我馬子
 32代 崇峻(すしゅん)天皇(587年~592年)…蘇我馬子
 33代 推古(すいこ)天皇(592年~628年)…蘇我馬子

 34代 舒明(じょめい)天皇(629年~641年)…蘇我蝦夷
 35代 皇極(こうぎょく)天皇(642年~645年)…蘇我蝦夷・蘇我入鹿


蘇我稲目(そがのいなめ)
娘の堅塩媛(きたしひめ:用明天皇、推古天皇の母)と小姉君(あねのきみ:崇峻天皇の母)を欽明天皇の妃としました。

朝鮮の百済聖明王(せいめいおう)の使者が仏像と経典を献上してきたとき、仏教の受容を主張しました。
大連の物部尾輿(もののべのおこし)と連の中臣鎌子(なかとみのかまこ:中大兄皇子と大化の改新をおこなった中臣鎌子(→中臣鎌足)とは別人)は仏像の破壊を主張し、蘇我氏と物部氏が激しく対立することになります。

渡来人と結びつき、朝廷の財務をにぎって勢力を強めました。


蘇我馬子(そがのうまこ)
50年以上にわたって、大臣(おおおみ)として権力をふるいました。

敏達天皇のとき、仏教の信仰をめぐって物部守屋や中臣勝海と激しく対立します。

用明天皇が没し、物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようとしますが、馬子は穴穂部皇子を殺害します。
さらに、馬子は兵を挙げ、苦戦の後、物部氏を攻め滅ぼします。聖徳太子も馬子の軍に加わっていました。

その後、即位した崇峻天皇は、徐々に馬子の専横を憎むようになります。それを知った馬子は崇峻天皇を暗殺してしまいます。

馬子は皇太后の炊屋姫(かしきやひめ)を即位させます。
初の女帝、推古天皇です。
聖徳太子摂政となり、馬子と協力して、冠位十二階十七条憲法遣隋使仏教の奨励などの政策を推進しました。


蘇我蝦夷
推古天皇が亡くなると、舒明天皇を即位させました。

舒明天皇の死後、皇極天皇を擁立します。

皇族の私民を使って蘇我氏の墓所の工事に従事させたり、息子たちを勝手に大臣に任命したり、自らの邸宅を大王の屋敷の呼称である「みかど」と呼ばせたりなどの、天皇をしのごうとした行為があったといわれています。


蘇我入鹿
皇極天皇の即位に伴って父の蝦夷より実権をゆずられました。

蘇我氏を批判し天皇中心の政治を望む声を察知した入鹿は、入鹿の反対派が擁立を図った山背大兄王(聖徳太子の子)一族を滅ぼします。

ところが、権力の絶頂にあったとき、朝鮮からの使者を迎える儀式の場で、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂らによって暗殺されてしまいます(乙巳の変)。

それを知った父の蝦夷も自殺して蘇我氏の時代は終わります。

以後、中大兄皇子や中臣鎌足を中心とした大化の改新が始まることになります。


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古墳時代(3世紀半ば~8世紀初め)

縄文時代、弥生時代に続く、わが国で古墳とくに前方後円墳が作られた時代を古墳時代といいます。
3世紀半ば(紀元250年頃)~8世紀初め(710年)までを古墳時代とする説が有力です。

古墳時代のうち、6世紀末~8世紀初め(710年)は飛鳥時代と重なります。


3世紀半ば~6世紀末は前方後円墳がほとんどで、7世紀になると方墳、円墳、八角墳が多くなります。

政治的には、ヤマト政権大和王権ヤマト王権)が成立し、全国の統一を進め、わが国が一つの国としてまとまっていった時代です。


(言葉の説明)
古墳…土を盛りあげてつくった「おか」(墳丘(ふんきゅう))を備えた墓のことを古墳といいます。

前方後円墳…上空から見ると鍵穴のような形をした、前部は四角形で後部が円形の古墳。
日本独特の形だとされています(朝鮮西南部にも存在するという説もあります)。

方墳・円墳・八角墳…四角形の古墳が方墳、円形の古墳が円墳、八角形の古墳が八角墳です。



古墳時代はさらに3つに分類されます。

3世紀半ば~4世紀(紀元250年~400年)

ヤマト政権が国内の統一を進めていった時代です。倭(わ:日本の古い国名)は朝鮮半島にも進出し、高句麗と戦います。

畿内(きない: 都に近い、山城(京都府)・大和(奈良県)・河内・和泉・摂津(大阪府)の5国を指します。)を中心に、円墳・方墳・前方後方墳・前方後円墳が作られました。

中に竪穴式石室があり、周囲に円筒埴輪が置かれました。

奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)がこの時代の代表的な古墳です。


(言葉の説明)
竪穴式石室…古墳の内部を掘り込んで壁を石で作り、上を石でふさいで部屋状にしたもの。内部にひつぎをおさめました。

埴輪…埴(=土で作った)、輪の形をした、素焼きの土器のことです。古墳の周囲に並べられました。
聖なる場所であることを示すために並べたという説と、古墳が崩れないように支えとして並べたという説があります。

円筒埴輪…古墳時代初期に多い埴輪です。土管のような円筒形をしています。



5世紀(紀元401年~500年)

ヤマト政権の支配がほぼかたまり、倭の五王が中国に使いを送るなど、外交にも力を入れ始めた時代です。

全国の平野部に前方後円墳がさかんに作られました。

古墳の中には竪穴式石室、周囲には形象埴輪が置かれました。

大阪府堺市の大仙古墳(大仙陵古墳)はこの時代に作られました。


(言葉の説明)
形象埴輪…具体的な物の形をした埴輪です。
人物、馬などの動物、武器、家の形をかたどったものなどがあります。



6世紀~8世紀初め(紀元501年~710年)

百済から仏教が伝わるなど、整備された政治制度と文化による統治が確立していった時代です。

大型の前方後円墳は作られなくなり、全国的に山間部に小さい前方後円墳や、群集墳、方墳が作られた時代です。

横穴式石室が一般的となり、円筒埴輪と形象埴輪が置かれました。

奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳がこの時代の古墳です。


(言葉の説明)
横穴式石室…古墳の横から出入りできる穴を備えた石室です。石室を玄室といい、通路を羨道(せんどう)といいます。
竪穴式石室とちがって、あとで別の死者を葬ることができました。



古墳時代の後期(6世紀末~8世紀初め)は飛鳥時代と重なります。

飛鳥時代

崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の119年間。

飛鳥に都が置かれていた時代で、古墳時代の終末期と重なります。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていました。

推古天皇のときに飛鳥文化、天武・持統天皇のときに白鳳文化が栄えました。

この時代に倭国(倭)から日本へ国号を変えたとされています。



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い時代の遺物(土器・石器など)や遺構(住居跡など)が発見された土地のことを遺跡といいます。

この稿では、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代弥生時代の遺跡をとりあげます。


社会科でよく出題される遺跡は次のものです。

東北地方

三内丸山(さんないまるやま)遺跡(青森県・青森市)
大湯(おおゆ)環状列石(秋田県・鹿角市)

関東地方

岩宿(いわじゅく)遺跡(群馬県・みどり市)
大森貝塚(東京都・品川区)

中部地方

尖石(とがりいし)遺跡(長野県・茅野市) 
登呂(とろ)遺跡(静岡県・静岡市)

近畿地方

唐古(からこ)遺跡(奈良県・田原本町)
纒向(まきむく)遺跡(奈良県・桜井市)

九州地方

板付(いたづけ)遺跡(福岡県・福岡市)
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡(佐賀県・神埼市)
原の辻(はるのつじ)遺跡(長崎県・壱岐市)

遺跡
















遺跡を時代順に並べると次のようになります。

旧石器時代(先土器時代)の遺跡…数十万年前~1万年前

岩宿(いわじゅく)遺跡(群馬県・みどり市)


縄文時代の遺跡…1万年前~紀元前4世紀

三内丸山(さんないまるやま)遺跡(青森県・青森市)
大湯(おおゆ)環状列石(秋田県・鹿角市)
大森貝塚(東京都・品川区)
尖石(とがりいし)遺跡(長野県・茅野市) 


弥生時代の遺跡…紀元前4世紀~紀元3世紀

登呂(とろ)遺跡(静岡県・静岡市)
唐古(からこ)遺跡(奈良県・田原本町)
纒向(まきむく)遺跡(奈良県・桜井市)
板付(いたづけ)遺跡(福岡県・福岡市)
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡(佐賀県・神埼市)
原の辻(はるのつじ)遺跡(長崎県・壱岐市)


おもな遺跡について、さらに細かく見ていきましょう。

旧石器時代(先土器時代)の遺跡…数十万年前~1万年前
大陸と地続きで、旧石器(=打製石器)を用いていた時代です。

岩宿(いわじゅく)遺跡(群馬県・みどり市)
1946年、地元の青年相沢忠洋(あいざわただひろ)によって発見されました。
相沢忠洋は関東ローム層から打製石器を発掘し、日本にも旧石器時代があったことが初めて明らかにされました。
2001年には約17,000年前の石器約500点が発掘されました。


縄文時代の遺跡…1万年前~紀元前4世紀
人々は台地にむらをつくり、竪穴式住居に住み、狩りや漁で生活をしていた時代です。

三内丸山(さんないまるやま)遺跡(青森県・青森市)
今から約5,500年前~4,000年前(縄文前期~中期)の、日本最大級の縄文集落跡。
1992年からの発掘調査で、竪穴住居跡、墓、掘立柱建物跡、貯蔵穴、道路跡などが見つかりました。
多数の縄文土器、石器、土偶、装身具、木器、骨角器も発掘され、クリが栽培されていたこともわかりました。
また、翡翠(ひすい)・黒曜石などが出土したことから、遠方の集落と交易があったと推定されています。

大湯(おおゆ)環状列石(秋田県・鹿角市)
縄文時代後期の遺跡。中心に2つの環状列石(ストーンサークル)があり、そのまわりを多くの貯蔵穴や柱穴が囲んでいます。

大森貝塚(東京都・品川区)
縄文後期から晩期にかけての遺跡です。
1877年、アメリカの動物学者E・S・モース博士が汽車の窓から貝がらの堆積を発見し、わが国で初めて発掘調査をおこないました。
日本の考古学の出発点となった発掘でした。
貝がら、土器、土偶、石斧、石鏃、人骨、鹿やクジラの骨などが出土しています。

尖石(とがりいし)遺跡(長野県・茅野市) 
八ヶ岳西山麓にある、縄文時代中期の代表的な集落遺跡です。1940年からの発掘で、竪穴住居、石鏃(せきぞく)、石斧(せきふ)、土偶などが出土しています。


弥生時代の遺跡…紀元前4世紀~紀元3世紀
稲作が始まり、金属器が使用され始めた時代です。人々は水田の近くにむらをつくり、竪穴式住居に住み、高床倉庫に稲穂を貯蔵しました。

登呂(とろ)遺跡(静岡県・静岡市)
1943年に発見された、弥生時代後期(2~3世紀)の遺跡です。
12軒の住居、2棟の高床倉庫、板で区画された水田、木器・石器・土器などが発掘されました。
弥生時代のむらがそのまま残った貴重な遺跡です。

唐古(からこ)遺跡(奈良県・田原本町)
弥生時代の集落遺跡で、唐古池の底から発掘された竪穴と鍬(くわ)・杵(きね)などの木器から、弥生時代の稲作の詳しい様子が判明しました。

纒向(まきむく)遺跡(奈良県・桜井市)
弥生時代末期の大規模集落遺跡です。邪馬台国が近畿にあったという説の有力な根拠とされています。箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓だという学説も主張されています。

板付(いたづけ)遺跡(福岡県・福岡市)
縄文時代晩期から弥生時代後期にかけての遺跡です。佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡とならぶ日本最古の水稲耕作跡であり、福岡県の江辻(えつじ)遺跡に次いで古い環濠(かんごう:周囲に堀をめぐらせた)集落です。

吉野ヶ里(よしのがり)遺跡(佐賀県・神埼市)
日本最大の広さをもつ、弥生前期~後期にかけての環濠集落の遺跡です。
内濠や城柵(土塁)、楼観(物見櫓)などから、弥生時代の「くに」の中心的な集落のようすがわかってきました。
有柄銅剣やガラス製管玉なども発掘されています。

原の辻(はるのつじ)遺跡(長崎県・壱岐市)
長崎県の壱岐島にある弥生時代の遺跡です。日本最古の船着き場の跡や中国の貨幣、日本で唯一発見された人面石などが発掘されました。『魏志』倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都だといわれています。


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中国を統治した王朝、政府を概観すると次のようにまとめられます。


夏 最古の王朝だとされています。

殷 殷墟(いんきょ)、青銅器、甲骨文字を残しました。

 前1100頃~前256 封建制度で中国北部を統治しました。

春秋時代 前770~前403 周が衰え、諸侯が争った時代です。
戦国時代 前403~前221 七国(韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕)が争った時代です。

 前221~前206 始皇帝が中国を統一しました。貨幣や文字を統一し、万里の長城を築きました。

漢(前漢) 前202~後8 劉邦が項羽を倒して建国しました。武帝のときに儒教を国教としました。

新 後8~23 王莽が前漢を乗っ取った王朝です。

漢(後漢) 25~220 光武帝が漢王朝を再興しました。

三国時代 220~280 曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀が争った時代です。
・・魏 220~265 蜀を滅ぼしますが、司馬炎に倒されます。
・・蜀 221~263 魏に滅ぼされます。
・・呉 222~280 司馬炎の晋に滅ぼされます。 

晋(西晋) 265~316 魏の重臣、司馬炎が建てた国です。

東晋 317~420 晋の滅亡後、皇族が再興した国です。
五胡十六国 304~439 異民族が華北に侵入し、興亡をくりかえしました。
南北朝時代 439~589 華北の王朝と東晋の後継王朝が南北に分かれて統治した時代です。

 581~619 楊堅が再び中国を統一しました。律令制度を始めました。

 618~907 李淵・李世民親子が建てた王朝です。均田制や租庸調を採用しました。

五代十国 907~960 唐が滅亡した後、宋が再統一するまでの間、華北で五王朝、地方で十の国が興亡しました。

(北宋) 960~1127 趙匡胤が再び統一王朝を建てました。1127年、南に逃れて南宋となります。

南宋 1127~1279 元に滅ぼされます。
遼 916~1125 契丹族の耶律阿保機が建国、北宋を圧迫し、中国北部を支配しました。
金 1115~1234 北宋を滅ぼして中国北部を支配した王朝です。

 1271~1368 モンゴル帝国のフビライが南宋を倒して中国全土を支配しました。

 1368~1644 漢民族の朱元璋が元を滅ぼし、建国しました。

 1616~1912 満州の女真族のヌルハチが建国、明の滅亡後、中国を統治しました。

中華民国 1912~1949 辛亥革命で清を倒して成立しました。中国共産党によって台湾に追われました。

中華人民共和国 1949~ 中国共産党が、1949年に国民党との内戦に勝利した後、現代まで中国を統治しています。


国名の暗記方法

私は「語呂合わせ」よりは「お経のように唱える」ほうが覚えやすいし手っとり早いと思っているので、次のように暗記しました。

殷・周・秦・漢・隋・唐・宋、いん・しゅう・しん・かん・ずい・とう・そう(このあたりで息が切れます)

元・明・清、げん・みん・しん(ここで一呼吸)

中華民国・中華人民共和国、ちゅうかみんこく・ちゅうかじんみんきょうわこく


童謡『うさぎとかめ』の歌詞に合わせて覚える方法もあるようです。

いん・しゅう・しん・かん・さんごく・しん…もしもしかめよかめさんよ
なんぼくちょう・ずい・とう・ごだい…せかいのなかでおまえほど
そう・げん・みん・しん・ちゅうかみんこく…あゆみののろいものはない
ちゅうかじんみんきょうわこく…どうしてそんなにのろいのか

三国時代、南北朝、五代が入っているので便利といえば便利です。



中国の王朝と日本との関係

小学生・中学生の場合、日本の歴史との関連で中国の王朝名を覚えると知識の整理ができて得点力がアップします。


漢(前漢) 前202~後8

『漢書地理志』に、わが国について「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる」と書かれています。


漢(後漢) 25~220

『後漢書東夷伝』に、倭のの国王の使いが57年に後漢に朝貢し、光武帝より金印を授けられたという記述があります。
1784年に福岡県の志賀島から出土した金印(「漢委奴国王」と刻まれています)がその金印だとされています。


三国時代 220~280

『魏志倭人伝(『三国志』魏書東夷伝倭人条)』に、倭に邪馬台国を中心とした国家連合が存在すること、邪馬台国の女王卑弥呼が占いによって統治していること、倭人の様子や風俗などが書かれています。


 581~619

『日本書紀』に、大和朝廷が推古天皇の15年に小野妹子を、後に犬上御田鍬を隋に使節として派遣したことが記述されています(聖徳太子による遣隋使)。
『隋書』によると、遣隋使の派遣は3回あったようです。


 618~907

遣唐使は、630年の犬上御田鍬から始まり、894年に菅原道真の意見によって廃止されるまで16回唐を訪れ、唐の文化をわが国に紹介しました。

また、663年、天智天皇のとき、百済をほろぼした唐と新羅の連合軍と、百済の王族を助けた日本とが朝鮮の白村江で戦い、日本軍は惨敗しました。


(北宋) 960~1127

南宋 1127~1279

平安時代の中期から鎌倉時代の中期にかけて(10~13世紀)、宋との交易が盛んでした。
特に平清盛は大輪田泊(現在の神戸港)を改修し、宋と活発に貿易を行いました(日宋貿易)。
宋銭が大量に輸入され、国内で流通しました。


 1271~1368

元への服属を鎌倉幕府が拒否したことから、元と高麗の連合軍が二度にわたってわが国に攻め込みました(元寇)。
1274年の襲来を文永の役、1281年の攻撃を弘安の役といいます。
8代執権の北条時宗を中心に、九州の御家人の奮闘もあって、元軍は撃退されました。


 1368~1644

倭寇の取締りを求めてきた明に対し、室町幕府将軍が「日本国王」として朝貢貿易をおこなったのが日明貿易です。倭寇と区別するための許可証である勘合を使用したので勘合貿易ともいいます。
3代将軍足利義満のとき最も盛んでした。
輸入された明銭は日本国内で広く流通しました。

また、豊臣秀吉が企てた朝鮮出兵(文禄の役慶長の役)では、李氏朝鮮を助けた明の大軍が日本軍と戦いました。


 1616~1912

わが国が鎖国をしていた江戸時代、オランダと清のみが長崎の出島で貿易を許されました。

明治になって、1894年、朝鮮で起こった甲午農民戦争に出兵した日本と清が、朝鮮の支配権をめぐって戦ったのが日清戦争です。
日本が勝利し、1895年の下関条約で、日本は清から台湾・遼東半島を奪い(遼東半島は後に三国干渉で返還)、巨額の賠償金を獲得しました。


中華民国 1912~1949

第一次大戦中の1915年、日本は中華民国に対し、旧ドイツ権益の継承など21か条の要求をつきつけ受諾させました。中国では激しい反日運動が起こりました。

1931年、奉天(現在の瀋陽)郊外での鉄道爆破事件(柳条湖事件)をきっかけに日本軍は中国東北部へ侵攻し(満州事変)、1932年、満州国を独立させて実質上わが国の属国としました。

北京郊外で起きた盧溝橋事件をきっかけに、1937年~1945年、日本と中国が戦った戦争が日中戦争です。
満州を支配したわが国はさらに華北への侵略を企てました。中国国内で内戦を続けていた国民政府(蒋介石)と共産党(毛沢東)は休戦し、わが国と戦いました。
戦争は長期化し、太平洋戦争に突入したわが国は、1945年、ポツダム宣言を受諾して降伏しました。


中華人民共和国 1949~ 

1972年、田中角栄首相が中国を訪問し、中国との間で日中共同声明を調印しました。これによって、日本と中国の正式な国交が回復しました。
日本は中華人民共和国政府が中国唯一の合法政権であることを認め、台湾との外交関係を絶ちました。中国は戦争賠償請求権を放棄しました。

1978年、福田赳夫内閣のとき、日本と中国との平和友好関係を強固にし発展させることを目的とする、日中平和友好条約が調印されました。
日中両国関係発展の指針、覇権反対の表明、経済・文化関係の発展と国民交流の促進などを規定しています。


追記:国名の暗記方法(その2)


いん・しゅう・しゅんじゅう、せんごく・しん…あるぷすいちまんじゃく

ぜんかん、しん、ごかん…こやりのうーえで

さんごく・しん・なんぼくちょう…あるぺんおどりを

ずい・とう・ごだい…さあおどりましょう

そう・げん・みん・しん・ちゅうかみんこく・ちゅうかじんみんきょうわこく…らーんららんらん・・・、

です。最後の方はゆっくりです。



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平安時代の章が一目で理解できるように、重要事項を最もわかりやすくまとめました。

1、平安京
桓武(かんむ)天皇…政治を立て直すため、都を奈良から移す
784年 長岡京
794年 平安京

桓武天皇の改革
国司の監督の強化(勘解由使(かげゆし))
班田収授法の励行・雑徭(ぞうよう)の半減
東北地方の蝦夷(えみし)の支配…坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍


2、新しい仏教
桓武天皇最澄空海に派遣し、新しい仏教が朝廷・貴族に広まる

最澄(伝教大師)…天台宗比叡山延暦寺(ひえいざん・えんりゃくじ)(滋賀県)
空海(弘法大師)…真言宗高野山金剛峰寺(こうやさん・こんごうぶじ)(和歌山県)


3、東アジアの変動
…中国でが滅び、宋が統一
朱子学・禅宗・水墨画

高麗(こりょ・こうらい)…朝鮮で新羅が滅び、高麗が建国


4、摂関政治
中臣鎌足の子孫の藤原氏が政治の実権

摂関政治…藤原氏は娘を天皇の后(きさき)にして、天皇が幼いときは摂政、天皇が成人後は関白となり、多くの荘園の寄進を受けて勢力を広げる

藤原良房…866年、皇族以外で最初の摂政
藤原基経…887年、最初の関白

藤原道長藤原頼通(よりみち)…摂関政治の全盛
「この世をば わが世とぞ思ふ もち月の かけたることも なしと思へば」

不輸の権不入の権…地方豪族は荘園を貴族や寺院に寄進し、不輸の権(税を納めなくてもよい特権)、不入の権(国司の立入りを拒むことができる特権)を得た


5、国風文化
遣唐使の停止の後、日本風の文化が生まれ、摂関政治の頃に最も盛ん

遣唐使の停止…894年菅原道真(すがわらのみちざね)の意見で、遣唐使を停止

仮名文字の発明…漢字をくずしたひら仮名・漢字の一部からかた仮名が生まれた

土佐日記』(日記)…紀貫之
源氏物語』(物語)…紫式部
枕草子』(随筆)…清少納言
古今和歌集』(最初の勅撰和歌集)…紀貫之

浄土信仰(浄土教)…念仏を唱えて極楽浄土を願う信仰
平等院鳳凰堂(びょうどういん・ほうおうどう)…藤原頼通、京都府宇治市
中尊寺金色堂(ちゅうそんじ・こんじきどう)…奥州藤原氏、岩手県平泉

寝殿造(しんでんづくり)…貴族の住居
大和絵(やまとえ)・絵巻物


6、武士の成長
土地争いから地方の農民が武装し、朝廷の武官と結びついて武士団になる
源氏平氏が武士団の棟梁に

地方の反乱…
藤原純友(ふじわらのすみとも)…瀬戸内海で反乱
平将門(たいらのまさかど)…関東で独立国を企てる

東北地方の戦乱…前九年の役後三年の役源義家が鎮圧


7、院政
後三条天皇…藤原氏の摂関政治を抑制

白河天皇1086年、譲位して上皇となり、で政治を行う
摂関政治が衰え、院の警護にあたる武士が進出する


8、平氏の台頭
保元の乱…崇徳(すとく)上皇と後白河天皇の争い、後白河天皇側の平清盛・源義朝(よしとも)が勝利
平治の乱…源氏と平氏が対立、源義朝を倒して平清盛が勝利

平清盛1167年、武士で最初の太政大臣(だいじょうだいじん)

日宋貿易…平清盛は兵庫港(大輪田泊(おおわだのとまり))を整備、と貿易し銅銭を輸入


関連年表

784年 長岡京に遷都
794年 平安京に遷都

866年 藤原良房が摂政になる
887年 藤原基経が関白になる

894年 遣唐使を停止

・907年 唐が滅びる
935年 平将門の乱
・936年 高麗が朝鮮を統一
939年 藤原純友の乱
・960年 宋が中国を統一

1016年 藤原道長が摂政となる
1051年 前九年の役
1083年 後三年の役
1086年 白河上皇が院政を開始
・1096年 十字軍の遠征が始まる

1156年 保元の乱が起こる
1159年 平治の乱が起こる
1167年 平清盛が太政大臣になる
1185年 壇ノ浦の戦いで平氏が滅びる


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飛鳥時代・奈良時代の章が一目で理解できるように、重要事項を最もわかりやすくまとめました。

1、東アジアの動き

(ずい)…分裂が続いた中国を300年ぶりに再統一(589年)、大運河の建設や高句麗遠征の失敗で反乱が起こり滅亡

(とう)618年建国、都は長安(現在のシーアン)、律令政治均田制(戸籍をつくり、土地を支給)、税として租・庸・調(そ・よう・ちょう)

シルクロード(絹の道)…中央アジアを横断する古代の東西交通路、中国の絹(シルク)がイスラム圏を通りヨーロッパにまで運ばれたことから、絹の(シルク)道(ロード)と名づけられた


2、聖徳太子の政治

朝鮮…百済(くだら)や新羅(しらぎ)が台頭、伽耶(かや:任那)から日本の影響力を排除

聖徳太子…6世紀末に推古天皇(すいこてんのう)の摂政となり、蘇我馬子(そがのうまこ)と協力して天皇中心の政治制度をつくることをめざす

冠位十二階…豪族優遇を改め、才能のある人を役人へ登用する道を探る

十七条の憲法(憲法十七条)…役人の心得を明文化する

遣隋使小野妹子(おののいもこ)を隋に派遣、中国の制度や文化を学ぶ

飛鳥文化(あすかぶんか)
・仏教文化(6世紀に百済から仏教が伝来、蘇我氏・聖徳太子が信仰)

法隆寺…世界最古の木造建築物、エンタシス(柱のふくらみ)はギリシャの影響
・釈迦三尊像(法隆寺)
・中国・インド・西アジア・ギリシャの影響


3、大化の改新

大化の改新中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり:のち藤原鎌足)が蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)を滅ぼして始めた政治改革

公地・公民…豪族の私有であった土地と人民を国有にする

白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い新羅が唐と結んで百済と高句麗を滅ぼす、日本は百済を救うため出兵するが敗北して撤退

天智天皇(てんじてんのう)…中大兄皇子が即位、戸籍を作る

壬申の乱(じんしんのらん)…天智天皇の死後、大友皇子に勝った天武天皇(てんむてんのう)が即位、天皇の称号が使われ始める、子の持統天皇藤原京に遷都


4、奈良時代

大宝律令の法律制度を導入、(りつ)は刑法にあたり、(りょう)は行政法にあたる

貴族…豪族は2官8省の官僚となり、貴族と呼ばれる

平城京710年元明天皇(げんめいてんのう)のとき、の都の長安にならい、奈良盆地に建設、人口約10万人

和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)…最初の本格的な貨幣

国司・郡司…国を国司(都から派遣)が、地方を郡司(地方の豪族を任命)が統治

戸籍…6年ごとに作成、良民賤民に区分

班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)…6歳以上の人に口分田を貸与、税として(稲)・(布)・調(特産物)を課し、防人(さきもり)として九州防衛の義務も

三世一身法(さんぜいっしんのほう)…新たな開墾地は三代、他は一代の私有を認める

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)…口分田が不足し、開墾した土地の私有を認める、荘園(しょうえん)の始まり

天平文化(てんぴょうぶんか)
・仏教と唐の影響を受けた文化

・遣唐使…630年~894年に10数回派遣、同行した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は唐の高官に

聖武天皇(しょうむてんのう)…光明皇后(こうみょうこうごう)と仏教の力で国を守るため国ごとに国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)を建てる
東大寺…大仏
正倉院聖武天皇の御物(ぎょぶつ)を納める、校倉造(あぜくらづくり)

行基(ぎょうき)…橋や用水路をつくり、東大寺大仏の造営に協力

鑑真(がんじん)…苦労して来日し、唐招提寺(とうしょうだいじ)で布教

・「古事記(こじき)」「日本書紀(にほんしょき)」「風土記(ふどき)」「万葉集(まんようしゅう)」…「古事記」「日本書紀」は歴史書、「風土記」は地方の国ごとの自然・産物・伝承を記す、「万葉集」は天皇・貴族・農民・兵士の歌を集める


関連年表

593年 聖徳太子が摂政となる
・589年 隋が中国を統一
603年 冠位十二階
604年 十七条の憲法
607年 遣隋使(小野妹子)

・610年 マホメット(ムハンマド)がイスラム教を開く
630年 第一回遣唐使
645年 大化の改新始まる
663年 白村江の戦い
672年 壬申の乱

・676年 新羅が朝鮮を統一
701年 大宝律令
708年 和同開珎
710年 平城京に遷都
723年 三世一身法
743年 墾田永年私財法
752年 東大寺の大仏完成
784年 長岡京に遷都



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