古墳時代の末期、592年~710年、奈良県の飛鳥(あすか)地方(現在の明日香村)に都が置かれていた時代が飛鳥時代です。

そして、飛鳥時代中期に政治の大改革をおこなったのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:天智天皇)です。

奈良時代の歴史書『日本書紀』などによると、645年、中大兄皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと協力して蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)を倒しました(乙巳の変(いっし(おっし)のへん))。

中大兄皇子と中臣鎌足は、日本最初の年号を「大化」と決め、大化の改新の詔(みことのり)によって、豪族の持っていた土地と人民を国のものとする公地公民、地方を国と郡と里に分けて国司・郡司・里長を置く国郡里制、戸籍を作って国民に口分田を与えて耕作させる班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)、米と布と地方の特産物を税として納めさせる租・庸・調(そ・よう・ちょう)を始めました。

また、百済を助けるために朝鮮に出兵しますが、唐と新羅の連合軍と戦って白村江(はくすきのえ(はくそんこう))の戦いで敗北します。

天智天皇(てんじ(てんち)てんのう)となった後、最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作り、最初の律令である近江令(おうみりょう)を制定しました。


中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:天智天皇)の生涯(年表)

618 隋を倒してが建国

626 誕生
父は舒明(じょめい)天皇、母はのちの皇極(こうぎょく)天皇(のち再び即位して斉明(さいめい)天皇)の第二皇子として生まれる。

641 舒明天皇が崩御

642 皇極天皇が即位

645 皇極天皇の眼前で中臣鎌足らと蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷自殺(乙巳の変
舒明天皇の弟である孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子

646 大化改新の詔(たいかのかいしんのみことのり)

652 班田収授法(はんでんしゅじゅのほう)

655 皇極天皇が斉明天皇として再び即位

661 百済を救うために朝鮮へ出兵、同行した斉明天皇が筑紫国で崩御

663 白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北

667 都を飛鳥から近江大津宮に移す

668 天智天皇として即位

669 中臣鎌足死去

670 庚午年籍をつくる

671 近江令をつくる
天智天皇崩御


天智天皇崩御の後

672 天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)と、天智天皇の弟とされる大海人皇子(おおあまのみこ)が皇位をめぐって戦う(壬申の乱(じんしんのらん)
勝った大海人皇子が天武天皇として即位


中臣鎌足・大化の改新・白村江の戦い・壬申の乱

中臣鎌足(614~669年:中臣鎌子・藤原鎌足)
朝廷の祭祀(さいし)をつかさどっていた豪族の中臣氏に生まれました。
鎌足の次男が藤原氏繁栄の基礎を築いた藤原不比等、娘2人は天武天皇の夫人です。

遣隋使の一員で中国で学んだ僧旻(みん)に、若い頃、蘇我入鹿とともに易学を学びました。

家業である祭祀の職を継がずに隠棲し、当時、天皇家をしのぐ勢いがあった蘇我氏を打倒する策を練りました。
軽皇子(かるのみこ:のちの孝徳天皇)に接近後、蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き入れ、中大兄皇子を反蘇我氏の盟主にあおぎます。

645年、皇極天皇が臨席した三韓(百済・高句麗・新羅)の使者を迎える儀式の場で、中大兄皇子らと謀って蘇我入鹿を暗殺し、入鹿の父、蘇我蝦夷を自殺させて蘇我氏の勢力を一掃します(乙巳の変:いっしのへん)。

軽皇子が孝徳天皇となって即位し、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(うちつおみ・ないしん)となって、年号『大化』を定め、公地公民の詔を出して、新しい政治をおしすすめました。

669年、死期の迫った鎌足に、天智天皇は朝廷での最高位である大織冠(だいしょくかん・だいしきかん)の位を授け、藤原の姓を与えました。


大化の改新
狭い意味では、645年に蘇我氏を滅ぼした乙巳の変から元号の大化が終わる650年までにおこなわれた改革を大化の改新といいます。
広い意味では、645年の乙巳の変に始まり、飛鳥時代の孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇の治世におこなわれたさまざまな改革を大化の改新とよびます。

646年(大化2年)、大化の改新の詔(みことのり:天皇による宣言)によって、その後の政治の大方針が決定しました。

1、それまで豪族が私有していた土地(田荘:たどころ)と人民(部民:べのたみ)を没収して天皇の土地、人民とする。・・・(公地公民

2、都を決めて、従来の国(くに)・郡(こおり)・県(あがた、こおり)などを国と郡に整備して、政府が役人を任命する。・・・(国・郡・里制

3、戸籍と計帳を作り、天皇の土地である公地を、天皇の民である公民に貸し与えることにする。・・・(班田収授法

4、それまでの税と労役をやめて、耕地の面積によって税を納めさせる新しい税の仕組みにする。・・・(租・庸・調

改新の詔自体は方針の宣言に過ぎず、その後、飛鳥時代をとおして徐々に実行されていきました。


国・郡・里
701年の大宝律令(たいほうりつりょう)で完成した地方行政組織です。
全国を60ほどのに分けて、2~20里で1、住民50戸で1としました。
国には中央の役人から国司(こくし)を任命し、郡では地方の豪族を郡司(ぐんじ)に採用し、里ではその地の有力者を里長(りちょう・さとおさ)としました。


班田収授法
701年の大宝律令によって実際におこなわれるようになりました。
6年ごとに戸籍を作成し、それによって班田を貸し与えました(六年一班)。
6歳以上の男子に2段(約22アール)、女子に男子の2/3の口分田を貸与し、耕作を認めました。死ぬと国に返す仕組みです。
口分田以外に、身分や職による位田、職田などがありました。


租・庸・調
唐の税制をわが国の実情に合うように修正した税の仕組みです。

耕地の面積に応じて課された税で、田一段につきを二束二把(収穫の約3%)納めました。
種もみとして百姓に貸した利子(出挙:すいこ)が地方の国・郡の財源になりました。

本来、庸とは成人男子が1年間に10日間労役を提供する義務をいいましたが、労役にかえてを2丈6尺納めました。土地にかかる税ではなくて、人にかかる税です。米や塩などで徴収されることもありました。
中央政府の費用にあてられました。
調
各地方の特産物(絹・綿・魚介類・鉄など)を納めました。男子だけが負担した、人にかかる税です。
庸と一緒に都に運ばれて、都の役人の経費にあてられました。


白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い
高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が鼎立していた朝鮮で、新羅と同盟を結んで朝鮮の統一に乗り出し、百済は日本に救援を求めました。
中大兄皇子は、斉明天皇とともに朝鮮への出兵を企てます。このとき、斉明天皇は筑紫の国で病死してしまいます。

660年、百済が滅ぼされた後、661年、百済を復興するために再び倭(日本)の軍隊は朝鮮に出兵しました。
663年、朝鮮の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)で、唐・新羅の連合軍と倭・百済の連合軍が激突します。
この戦いで大敗し、倭の軍は朝鮮から撤退します。

のち、高句麗も滅亡し、朝鮮は新羅によって統一されました。

即位して天智天皇となった中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃に備えて九州に水城(みずき)とよばれる城を築き、全国から兵を徴集して防人(さきもり)として九州を守らせました。
防衛のため、都も、近江の国の大津に移しました。


壬申の乱

天智天皇は672年に亡くなります。
天智天皇の子、大友皇子(おおとものみこ)が弘文天皇となりました。

ところが、天智天皇の弟であった大海人皇子(おおあまのみこ)が、吉野から出て美濃の国へ至り、東国の兵を集めて挙兵します。

豪族の中には、白村江の戦いの敗北や、近江への遷都、急激な改革などに対して不満を持ち、大海人皇子に味方する者も多く、戦いは大海人皇子の軍の勝利に終わります。

673年、大海人皇子は都を近江から飛鳥にもどし、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇となります。


社会の全目次はこちら
社会 分野別学習目次