飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけて活躍した政治家が藤原不比等(ふじわらのふひと)です。

天武天皇(在位:673~686)、持統天皇(在位:686~697、天武天皇の后)の治世の後、文武(もんむ)天皇(在位:697~707、天武天皇の孫)、元明(げんめい)天皇(在位:707~715、文武天皇の母)、元正(げんしょう)天皇(在位:715~724、文武天皇の姉)の時代に活躍しました。

藤原不比等は大化の改新に功績のあった中臣鎌足(藤原鎌足)の次男です。

また、不比等の子、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)が、藤原四家の南家・北家・式家・京家となり、不比等の子孫が後の摂関政治をにないます。

さらに、不比等の娘宮子は文武天皇の后となって聖武天皇を産み、不比等と県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)との娘光明子は聖武天皇に嫁いで光明皇后となります。

直接明示する歴史資料はほとんどありませんが、701年の大宝律令の制定、710年の平城京遷都や、古事記日本書紀の編纂などを実質的に推進したのは藤原不比等だとされています。


藤原不比等の生涯(年表)

659年 中臣鎌足の第二子として誕生

669年 中臣鎌足、天智天皇より藤原の姓を賜る

672年 (壬申の乱)

673年 (天武天皇即位)

686年 (持統天皇称制)

689年 不比等31歳のとき、従五位下の判事となる(不比等の名が史書に表れた最初)

697年 文武天皇即位

701年 大宝律令

707年 元明天皇即位

708年 和同開珎(わどうかいちん)

710年 平城京遷都

712年 古事記(太安万侶)

715年 元正天皇即位

720年 日本書紀(舎人親王)、藤原不比等死去

724年 聖武天皇即位


大宝律令
近江令(天智天皇)、飛鳥浄御原令(天武天皇)についで、701年に制定された、律を備えた最初の本格的な律令(法律)です。

藤原不比等刑部親王(おさかべのみこ:忍壁皇子とも表記)が責任者になって編纂したとされています。
中国(特に)の法制である律令を模範として、わが国に導入しました。

刑法にあたるは、ほぼ唐の律をそのまま踏襲しました。

行政法にあたるは、わが国の実情に合わせたものになっています。
中央に役所として二官(太政官・神祇官)と八省(中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)を置くこと、公文書には元号を用いること、地方の単位である国・郡・里に国司・郡司を任命することなどを定めました。

大宝律令は逸失して原文は不明ですが、757年に制定された養老律令などによって大宝律令の内容を推定することができるのだそうです。


平城京(へいじょうきょう・へいぜいきょう)
わが国最初の本格的な都は、持統天皇の時代に、現在の奈良県橿原市に造営された藤原京です。

藤原京が手狭になったので、710年元明天皇のとき、の都長安(ちょうあん:現在の西安(しーあん))にならって大規模な都を現在の奈良市に建設したのが平城京です。
784年に長岡京(現在の京都府向日市・長岡京市など)に移るまで、奈良がわが国の首都でした。

大規模な首都を建設することで、内外に天皇と朝廷の権威を示すことを目的としました。

平城京は、当時、ほぼ10万人の人が住んでいました。
東西南北に道路が桝目(ますめ)状に整備された条坊制が特徴です。
平城京跡からは、字を書きとめた木の札である木簡(もっかん)が多数発見され、当時の様子を知る手がかりとなっています。

平城京への遷都の理由として、旧豪族の勢力が残る飛鳥に近い藤原京から離れた地に遷都することで律令政治の徹底を図ろうとした藤原不比等の意志があったといわれています。


和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)
日本で最古の貨幣は、683年頃につくられた富本銭(ふほんせん)です。 
実際に流通したのか、まじない用に使われただけなのか、わかっていません。

708年、武蔵国秩父(現在の埼玉県秩父市)から銅が献上されたのを機に、元号を和銅と改め、唐の貨幣を模範として作られた最初の流通貨幣が和同開珎です。

和同開珎以降、958年まで政府が発行した貨幣をまとめて皇朝12銭といいます。

奈良時代はまだ物々交換や米などを貨幣代わりに利用する経済だったので、貨幣は都近くの畿内以外にはほとんど流通しませんでした。


日本書紀
720年舎人親王(とねりしんのう)らが編纂し、元正天皇のときに成立した、わが国で最初の正史(国家によって編纂された歴史書)です。
神代より持統天皇の治世までのわが国の歴史が、漢文、編年体で記述されています。

中国の歴史書を模範に、天皇と大和朝廷の権威を高めることを目的に編纂されました。
日本書紀の天武天皇10年(681年)の条に、「天武天皇が歴史書の編纂を命じた」という趣旨の記述があることから、天武天皇の時代に作成が始まり、元正天皇のとき、720年に完成したことが明らかです。

天皇家以外の豪族の家記や、官庁の記録、個人の日記、寺院の縁起類、中国の史書や朝鮮の資料など多くの資料を引用した内容となっています。

編纂を命じた天武天皇や、当時の実力者である藤原不比等の意向をくんで、天武天皇、藤原氏に有利な記述に偏っているという学説も有力です。

同時代、日本書紀よりやや早く成立した歴史書としては、天武天皇が命じた稗田阿礼(ひえだのあれ)の口述を、元明天皇の命により太安万侶(おおのやすまろ)が書き取ったとされる古事記があります。


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